眠るようには、きっと死ねない。
彼は眠りに落ちるとき、まるで突き落とされるようだといつも思う。
目を閉じて浮遊感に身を任せ、意識は吸い込まれて消える。
それはとても、とてもとても、心地よかったりする。
『眠るようには、きっと死ねない』
月明かりの差すテラスに立つのは、明るい茶の髪と同色の瞳を持つ男。
険しく細められたその目は、真っ直ぐ空を貫いている。
眼下には、野営の灯火が無数に並び、無言の圧力を男に加えているかのようだ。男の名は、ヴィネル。姓は無い。
ヴィネルはもう、既に小一時間ほど微動だにせずこのテラスで風と月明かりを浴びていた。彫像かと思うほどに、虚空の一点を見詰めて。
別にヴィネルは雰囲気に酔っているわけではない、只単に考え事をしているだけである。
悩みの元は彼の左手が握り締めている一通の書状。
その末尾にある書名は───クルガン。
ヴィネルは、ハイランドと都市同盟の境界あるこの砦の軍隊総指揮官を任されている。
彼は元傭兵で、一対一の戦いは然程でもないが指揮能力に抜群の才を持っていた。土地柄何度と無く起こる小競り合いを凌ぎきり、未だこの砦を死守している。感心するべき手腕と言えよう。
だがしかし、一地点を押さえるだけで戦に勝てれば苦労はない。
一体何が起こったのか、ここ半年の間に、他の砦はハイランドに次々と落とされ、結果ヴィネルの守るこの地だけが突出してしまっているのだ。補給路を絶たれれば絶海の孤島、篭城戦にも意味は無い。
そして今まさにこの砦の周りを包囲せんとしているのが、ハイランド軍。見える灯は彼らのものである。
むしろ、撤退が無かった事が仇になったともいえる状況。幾ら戦に勝とうとも、このままでは待つのは死に違いない。
ヴィネルひとりならば少しでも多くを道連れに冥土に羽ばたく気にもなるのだが、そうもいかない訳があった。
同盟領のこの地を治めるロード、フィアルグ公が砦に残っているのである。あまりに早いハイランドの侵攻に、亡命する間も無く取り残されたのだ。
ヴィネルはロード・フィアルグに絶対の忠誠を誓っている。
ヴィネルが流れの傭兵隊に属していた頃───その頃はまだ、ハイランドの手先として戦っていたのだが───不覚にも重傷を負い、味方にも見捨てられ戦場に取り残された。その時ロード・フィアルグは、敵であるにもかかわらず、負傷したヴィネルに止めを刺す事はしなかった。
一応扱いとしては捕虜であったが、拷問などもなく怪我の手当てまでしてくれた。勿論金を払ってまでヴィネルの身柄を引き取りたい相手がハイランドに居る筈も無く、ヴィネルの利用価値はゼロであったにもかかわらず。
ロードの人柄に触れ、ヴィネルは同盟軍に属して働く事にしたのである。
更にロードはヴィネルの才を見抜き、この地位まで取り立ててくれた。返せない大恩のある人物。
ロードのためならば命を捨てる覚悟はあった。
だが、共に死ぬつもりは毛頭無かった。
ロードを生かしてこその自分の死である。
ヴィネルに残されている選択肢は、砦を放棄、撤退しかないのだが───現在、手遅れになりつつある状況。
逃げ切れる可能性は、ヴィネルの読みによれば三割。
ヴィネルは迷っていた。
それよりも割りの良い可能性が、自分の手の中に羊皮紙の形をとって握られているのだ。
旧知の友人からもたらされた取引。最後にその姿を見たのは何年前だろう、まだ少年とも言える時期だったか。
研ぎ澄まされた銀の刃を髣髴とさせる、その横顔。
「───結構な出世だな、クルガン」
冷えた喉を震わせて、ヴィネルは呟いた。
自分も似たような地位ではあるが、貴族偏重主義に凝り固まったハイランドで、クルガンのようなものが軍を率いるなど奇跡に近い。
巡り合わせとは数奇なものだ。
肩を並べて戦った相手が、敵として目の前に立ちふさがるなど珍しくも無いものか。
いや、どちらかと言えば立場を変えたのは自分の方か───ヴィネルは緩く笑った。
書状を届けた赤毛の仕官の顔と共に、ヴィネルは昼下がりの訪問を思い出していた。
+++ +++ +++
そう畏まらなくとも良い、そう言い終わらないうちに、使者は相好を崩した。
「そりゃ有難い。俺もあの男の知り合いって奴と腹割って話して見たかったんだよな」
気さく、と言えるのだろう。
立場上敵に間違いのないヴィネルの前でも、シードはあけすけな表情を見せた。
只、ヴィネルとてわかってはいた。
いくら、そこら通りで歩いているのと変わらない陽気な若者に見えても、シードも軍人である。けして、気を許している訳ではあるまい。
「ええと……ヴィネル指揮官?アンタ結構有名だぜ、一度手合わせお願いしたいくらいに」
「遠慮しておこう。期待外れだと罵られるのは遠慮したいからな」
ざわり、と居並ぶ兵士達に緊張が走り、すぐに霧散した。
何を考えているのか何も考えていないのか、ハイランド軍の使者であるシード中尉は飄々と立っている。
無礼と取られても仕方ない態度だが、ヴィネルの許しが出る前までは完璧に軍隊式の礼を取っていたので文句は付けられない。
「そか、残念」
シードは丸腰だが、ヴィネルは十分に距離をとったままでいた。
人は外見では判断できない。
「それで、使者殿の用件は?」
「手紙を届けに来ただけさ………受け取ってくれ」
兵士を仲介に、シードの手から書状を受け取る。
ヴィネルはそれを一瞥して、記憶の隅に掛かる名前を見出した。
(………………クルガン?)
ヴィネルの知るクルガンと言えば、それは一人しか思い浮かばない。
あまり見ない名なのである。その名の、言葉の意味を考えれば当然ともいえる───我が子にその名をつける親など普通は居まい。
「アイツいっつも俺に使者任せんだよな………敵陣真っ只中に一人で!絶対ェ悪意あるぜ、賭けてもいい」
ぶつくさとなにやら呟くシードの言葉の意味は気にせず、ヴィネルは問いをぶつけた。
「あの男が………ハイランド軍の指揮を執っているのか?」
「まあ、将っつっても下っ端の方だけどな。一応二個大隊くらいは任されてるよ」
シードはがりがりと頭を掻いて、
「んで俺は更にその下っ端と」
何故だか悔しそうに言うその様子には注意を払わず、ヴィネルは蝋を丁寧に剥がし書状を開いた。
素早く目を走らせる。
「………………………成る程」
「良い返事を期待してる」
「───応じた場合の、そちらの応対は?」
「多分俺だな。そちらが嫌なら変えると思うけど」
ヴィネルは一瞬だけ目を細めてシードを見ると、緩く首を振った。
「それには及ばない」
「そりゃ結構。俺は又明日来るから、返事はその時にでもな」
「わかった」
そこで会話は終わったと思ったのだが、シードはその場を辞さなかった。
少し首をひねって訊いてくる。
「今更かもしんねぇけど、こんな話をこんなトコでして大丈夫なのか?」
「心配無用だ。ここに居るのはロード・フィアルグではなく私直属の部下だけなのでな」
「ふ……ん」
シードは探るような色を瞳に乗せる。
ヴィネルはそれを軽く流しながら、促した。
「何か不満でも?」
「いいや。アンタはロードの部下なんだよな?」
「ああ。それは天地神明に誓って変わりない事実だ」
ゆっくりと瞬きをして、シードはもうひとつ質問をした。
「アイツとアンタ、仲は良かったのかい?」
「そう見えるか」
「いいや全然」
即答されたその言い草に、ヴィネルは軽い笑みを漏らした。
「………はっきり言うな?」
「違ぇよ、アンタがどうこうじゃない。アイツにそういうのがいたってのが、想像つかねぇだけ」
「クルガンは別に、コミュニケーション能力に欠けてる訳じゃない」
「けど愛想も欠如してる」
シードは悪びれもせずにそう言い切り、ヴィネルを更に苦笑させた。
「そうだな。親友………では無かった」
まだ二十歳にもなっていなかった、拙く幼い頃の思い出。
クルガンの鉄面皮を思い浮かべる。彼の内心が見抜けたことなどなかった。見抜こうと思った事もない。
いつも、決まった表情しか見せない少年だった。血まみれのサーベルを担いだときも。欠けた匙で野戦食をすくう時も、まるで自己という形を崩さない。
底を見せてはくれなかった。本音で話せたことなど、きっと無い。
「だが、肩を並べて戦ったんだ。それだけは確かな事だろう」
「そうか」
シードは唇を曲げて頷くと、片手を挙げてひらひらと振った。
そして、何処かスイッチが切り替わったように完璧に退出の礼を取る。
「じゃ、又明日」
かつかつと軍靴を鳴らして二、三歩歩き、思い出したように顔だけ振り返る。
ヴィネルの茶色の目を見据え、冷たくも暖かくも無い声音でこう言った。
「後悔しねぇような選択が出来るよう、願ってる」
一瞬だけ間が開いただろうか。ヴィネルは少し息を吸って答えた。
「………善処するさ」
赤毛はひとつだけ頷くと、足早に場を辞した。
ヴィネルはそれを見送り、軽い溜め息をついた。
悪意のない敵が一番恐ろしい。