鞭と鞭。








鞭と鞭。






ひゅっ

断ち割られた空気のかすかな悲鳴。

ざんっ!!

ベッドの中心を横に半分ほど切り裂いた刃は、シードの耳を掠めてその下の絨毯に食い込んで止まった。
赤毛が数本、数瞬遅れてはらりはらりと舞い落ちる。

「……………………」

シードの背筋を、つう、と冷たい汗が伝った。

飛びのく動きが一瞬ほど遅ければ、シードはベッドと一緒に中身を撒き散らしていたに違いない。
ヤバい。かなり本気だ。
短くはない付き合いだ、シードはよく理解している。クルガンの導火線は、けして長くはない。

(………なんで皆コイツの被ってる化け猫にちっとも気付かねぇんだろう)

数年来解けない疑問を反芻しても、やはり答えは出なかった。
絨毯に刺さった鋭い刃はゆるゆると抜き出され、視界から消えていく。

舞い散る羽毛の中、クルガンは溜め息をついた。

「…………当たらなかったか」
「なんだその残念そうな口調は!?」

がこっ ぶおんっ

思わずベッドの残骸を蹴散らしながら(というよりは持ち上げて放り捨てながら)、シードは吼えた。
立ち上がり、睨みつける。一秒後、背後でどおんと盛大な衝突音がした。元ベッドが壁にぶつかったのだ。

クルガンは真っ二つに折れて地に落ちたベッドを見やり、一言。

「もう使えんな」
「………その『いかにも自分は関係ないですよ』って響きは何処から来るのかナー?お兄サン」

シードは拳を握り締めて足を肩幅に開いた。
にこやかな笑顔を浮かべているつもりだが額には青筋が浮いているだろう。部下が見たら何をおいても一瞬で逃げ出す類の笑みだ。
今のシードとは絶対に視線を合わせたくない、と大抵の人物ならそう思う筈である。
しかし残念ながら、目の前の同僚はその『大抵』に当てはまらない。

「さあな。いいからさっさと執務室へ行け」
「ざっけんな!人の部屋だと思いやがって、どうしてくれんだよこの惨状、アンタ窓ガラスも割ったろ!?大体───」

しゅん

走った銀光を、シードは野生動物の反射神経で身をかがめて避けた。
普通の人間なら容赦なく死んでいる鋭さだ。

「危」

ねぇな、と言う暇もなく、突き刺す一撃が降ってくる。
シードは咄嗟に絨毯の上を横に転がった。ざくり、と剣が床に突き刺さる。

(………………げ)

ひゅっ

素早く抜き出され、シードの後を追う刃。
曲芸師のようになりながらシードは必死にそれを避けた。勢いでカーテンが裂け、壁紙が破れ、花瓶が割れる。派手な騒音を気にしている余裕はなかった。
避けるたびに部屋の何がしかが再起不能になっている為、シード自身の剣が見つからない。混沌としていく部屋の中、あまり逃げ場もない。

「ちょっ」
「いいから」
「待っ」
「さっさと」
「おいっ」
「執務室へ」
「マジで当たるから!」
「行け」
「いや行かせる気ねぇだろアンタっ!?」

目が据わっている。

逆袈裟の一撃を、シードは箪笥に飛び乗って避けた。その箪笥が斜めに切り裂かれる。
ごとり、と崩れ落ちる箪笥の残骸を蹴って、シードは寝室のドアへ跳んだ。開けている暇はない。

どかばきぃっ

ノブを回すタイムラグも惜しく、シードは裸足の踵でドアを突き破った。着地した後に回転して衝撃を殺す。
寝室の中に向かって叫ぶ。

「理由くらい聞けよっ」
「必要ない。どうせ下らん」

クルガンは外れた樫のドアを跨ぎながら平然と切り捨てた。

「いつまで手間をかけさせる気だ。仕事をしろ」
「誰も頼んじゃねぇっての」
「そうかでは自分で始末を付けろ。腹を切るか、正式な手続きをとって辞職だ」
「なんでそんな極端な選択肢しかねぇんだよ」

シードは着地した姿勢のままクルガンを見上げた。
この状況、抜き身の剣を手にした同僚相手の勝率と方法を計算する。勿論狙うのは弱点、戦術の基本だ。
しかしこの男、欠点がないのが欠点という嫌な人間なのである。
シードはゆっくりと唇を開いた。

「………アンタの愛人に」
「その台詞を最後まで喋る前に首と胴体の間の風通しをよくしてやろう」
「ゴメンナサイ冗談です」

ヤツは本気だ。
シードは溜め息をつき、ゆっくりと両手を挙げて降参の合図を示した。





+++ +++ +++





がたぁん!

突然起こった派手な音にびくりと身を震わせてシードの副官は顔を上げた。
見れば、扉を開けて彼の上官が執務室の中に転がり込んできたところだった。

まるで後ろから誰かに蹴飛ばされでもしたような有様で転がっているが───

「これでいいな」

後ろに居たのはクルガンなので、まさかそんなことは有り得ない。
副官はそう判断して、書類を纏めながら立ち上がった。

「わざわざお手数をおかけして、本当に済みませんでした」

クルガンに向かって深々とお辞儀をする。クルガンは執務室には入らず廊下に留まっていた。
まだ床と仲良くしている上司をちらりと一瞥し、

「シード様、幾らご機嫌が悪くとも入室くらいはまともにしてください。クルガン様はお忙しいのに、貴方の為に時間を割いてくださったんですよ」
「お前の目はまだ覚めねぇのか………」

意味不明なことを言ってくる上司は取りあえず放置する事にして、副官はクルガンに向かって笑顔を浮かべた。

「お疲れになったでしょう、お茶でもいかがですか」
「いや、有り難いがまだ仕事があるのでな。また今度誘って貰えるか」
「ああ、これは失礼いたしました。シード様のことで煩わせて仕舞ったのにこれ以上お引止めしては返ってご迷惑ですね」
「たいしたことはしていない。貴官も、このような上司を持って苦労していると思うが呆れず面倒を見てやってくれ」

そこでクルガンは一度言葉を切り、副官の目を真っ直ぐに見つめた。

「頼りにしている」

ぽん、と肩を叩かれ、副官は感動で目を輝かせた。

「はい………!」

そのまま立ち去るかに思えたクルガンだが、足を踏み出しかけた後思い出したように振り返った。
精根尽き果てたように蹲っている赤毛に声をかける。

「シード」
「………んだよ」

クルガンはその永久凍土並みに変わりがないのではないかと思わせる表情筋を緩め、柔らかく唇を曲げた。
社交辞令と皮肉をいう時以外は見られない、クルガンの笑顔。しかしそのどれとも違う笑顔。

「お前、今晩寝る部屋がないだろう?良かったら───」

その言葉にシードががばりと顔を上げる。
そして期待に満ちた目でクルガンを見つめた。

「え、何、もしかしてアンタの部屋に泊め」
「明日の分の仕事を回そう。執務室で夜を明かせ」

ばたん、と閉められる扉。
最後にぽとりと落とされた台詞。

「部屋の修繕の方は私が手を回して置こう」

………つまり、費用はシードの給料から落ちるということなのだろう。










執務室の中にある温もりは、窓から零れ落ちる日差しだけ。
気だるい午後の三時、シードは自分の机の上に突っ伏してしみじみと呟いた。

「飴が欲しいなぁ……」
「何子どもみたいな事言ってるんですか。サボった分書類が溜まってるんですから、今日はおやつ抜きですよ?」
「いいよ……要らねぇよ畜生………!」
「あ、ちょっとシード様………アナタ何泣いてるんですか!?」

シードを見やった副官は、驚きのあまり、抱えていた書類を床にどさどさと落とした。
そんなに仕事がお嫌だったんですか、それとも何か他に、と数秒ほどおろおろと首を左右に巡らせた挙句、

「ク、クルガン様ァ!」
「お願いだから呼ばないでください」

シードは部屋を出て行こうとする副官を土下座する勢いで引き止めた。