鞭と鞭。
『鞭と鞭』
廊下の向こうから血相を変えて駆け寄ってくる同僚の副官を目にして、クルガンは今日は厄日だということを早々と悟った。
その時点で足を止めたが、少し遅かったらしい。
どうやらこちらを目標としていたらしい彼は、クルガンの姿を目にするとますますスピードを上げ、ほんの数秒で目の前までやってくる。
「クルガン様っ!!シード様が」
「聞きたくない」
まさに一分の隙も与えず、クルガンは言い放った。北の果てにあるという氷山が口を聞いたらこんな響きだろう。
しかしシードの副官もそれだけではへこたれない。第一撃くらいで根を上げていては赤毛の珍獣の補佐は勤まらないのだ。
哀れっぽい声を上げ、副官は懇願の視線を送る。
「そうおっしゃらずに少しでもお話を」
「聞きたくない」
「クルガン様ぁ………」
なおも縋ろうとするシードの副官に、心なしかいつもより素早い動作で背を向け、クルガンは自身の執務室へ向かおうとした。
くるりと方向転換したクルガンの背に手を触れるなどという暴挙には出れず、シードの副官は絶望に身を浸した。
しかし、今まさに踏み出そうとしたクルガンの足がひたりと止まる。有り得ないことだが、副官にはその肩が少しだけ落ちたように見えた。
怪訝に思い、クルガンの肩越しに向こう側を伺う。
「………………」
原因はすぐに判明した。
変形するんじゃないかと思うくらいに顔を引きつらせたクルガンの上司、ソロン・ジー将軍が、廊下を走り出さんばかりに進んでくるのだ。
勿論回避は不可能である。
ソロンはクルガンの一メートル手前で急停止すると、口を大きく開けて叫んだ。
「クルガンっ!シードが」
「聞きたくありません」
流石ですクルガン様。
思わず副官は感心してしまった。
語尾が変形しただけで、先程副官に与えた言葉とイントネーションは全く同じだ。言い放つタイミングも。
仮にも上司にこのような態度を取ることが出来るのが、クルガンがクルガンである所以である(そして勿論シードはシードで、理由は全く違うが結果似たような真似が出来る。ソロンにとっては厄介極まりない)。
しかしソロンは副官よりは一枚上手だった。
腐っても上官は上官、クルガンに対する手札の数は多い。
「───明後日のお前の休暇は取り消しだ」
「見事な職権乱用ですね」
「聞こえんな。このままシードを何とかしなければ四軍に支障が出るのがわからんか。まずは明日の紅白訓練を先延ばしにする申請書から作成せねばならんのだぞ!?奴自身の担当書類も溜まっている!妥協策としてはお前に一時的に奴の仕事を肩代わりしてもらうことくらいだ。よって休暇などは夢のまた夢だと思え」
「解せません」
クルガンはすっと目を細めた。
「通常そのような場合にとる方法と、仰るその妥協策の間には、些か隔たりがあるように思えるのですが」
「何が言いたい」
「下らぬ理由で職務放棄するような将軍は、さっさと首にすればよろしい。後継者候補には私に二、三心当たりがございますので、履歴人格など詳細は貴殿からルカ様の耳に入れていただきたく───」
「この人非人!シードの首が(物理的に)飛んでも良いのか!大体まだ聞いてもいないくせに下らぬ理由と何故決め付ける」
言われなれた台詞を聞き流そうとするクルガンの肩を、ソロンは激しく揺さ振った。役に立たない者へのルカの処罰は簡単に予想できる。
クルガンはやや眉を顰め、ソロンのその手をさり気無く、しかし無造作に取り払った。
「奴の事を私に頼みに来る時点で、その問題は奴自身の個人的我が侭に寄るものだということはわかりきっています。ソロン様、少々シードを甘やかし過ぎでは?」
「…………お前は厳しすぎるような気がするがな。それが世に言う『可愛い子には旅をさせろ』とか、そういう心持ちならまだ救いようも───」
「勿論その通りですよ」
他に何の理由が?とクルガンは首をかしげる。
しかし、一欠けらも表情を動かさず、「聞きたくありません」と全く同じイントネーションで言われたその台詞はかなり信憑性が薄かった。
「……………………」
「……………………」
ソロンはクルガンの灰色の瞳をじっと覗き込んだ。
クルガンはつ、と視線を逸らし、ソロンの頭の尖った部分(玉葱で言えば芽が出る部位)をじっと見つめた。
忘れ去られているシードの副官は、とばっちりが来ないようにちゃっかり柱の影に避難し、死角から見物している。
「…………こうしていても埒が明かないな」
「ではここで打ち切りということで」
「どうしてそういう結論が出る!」
ソロンは地団太を踏みそうな勢いでクルガンに噛み付いた。
「妥協案だ」
クルガンは沈黙と一瞥でもって先を促す。
「シードの問題を解決してくれれば………」
そう言いながら、ソロンは何故自分が部下の尻拭いを部下に必死こいて頼まねばならないのかふと疑問に思った。だが、考えてはいけない類のことだと直感で認識したためそれを無視する。
しかし。
くれれば、の後が思いつかない。
クルガンと取引できるような類のものを、ソロンは持っていなかった。休暇の一週間程度は融通できるが、高々それくらいである。賄賂を渡しても仕方ないし、紹介するほど女には困っていないし、後は出世………ソロンの地位を明け渡すこと位が有効な手立てであろう。無論出来るわけがないが。
ごほん。ソロンは咳払いをした。
そして言い直す。自分は上司であり、クルガンは部下なのだ。
「シードの問題を解決しなければ、お前の愛人全てにお前の愛人全ての名を教えてやる」
「…………ソロン様、シードと言い草が同じなのですが」
「つまりお前に有効だということだ!わかったか、クルガン───」
「……………わかりました」
ここで貴方と押し問答をしているよりは、原因を排除したほうが手っ取り早いということはね。
心の中でクルガンはそう付け加えると、振り返らないままにシードの副官を呼びつけた。
「話題の馬鹿は今、何処にいる?」
氷点下のその声に、副官は背筋を凍らせた。
+++ +++ +++
クルガンは見慣れ過ぎた扉の前に立ち、それを眺めた。
つやつやと光る表面。同じ造りのクルガンの部屋の扉は、ボロボロになっているというのにだ。
何故かといえば原因は、この中に篭っている傍迷惑な同僚の度重なる訪問である。この部屋の主人は、異常とも言えるほどの人並み外れた怪力を有しており、軽くノックしただけでも扉は軋み、開ければ蝶番が外れそうになってしまうのだ。
「シード」
クルガンは軽くノックをした後、そう呼びかけた。返ってきたのは静寂。
扉には鍵がかかっていると聞いていたので、クルガンはノブを回すような無駄な行為はしなかった。
代わりに、不自然ではない程度にすばやく周囲に目を走らせる。
目撃者が誰もいないことを確認すると、クルガンは軽く息を吸った。
無造作に足を振り上げる。
振り下ろす。
がすっ!!
硬いブーツのかかとが、扉に叩きつけられた。
目撃者がいたとしても、大抵の場合見間違いか人違いだと勝手に納得してくれることを、クルガンはよく理解していた(そうやってシードに罪をなすり付けることも珍しくない)。しかしだからと言ってイメージダウンの可能性を高くする必要はない。
クルガンはすっ、と足を引いた。
望む結果は得られていない。
「………猿が」
クルガンは低い声で吐き捨てた。
扉はまだきちんと嵌っている。そのまま蝶番を吹き飛ばし内側に倒れこんでもおかしくないくらいの衝撃を与えたのだが、どうやらすぐ後ろに何か重いものを置きバリケードを張っているらしい。ちょっとやそっとの事では開けられないようだ。
雷魔法で全て一斉に灼き払う───そんな破壊行動もちらとだけ頭の隅を過ぎったが、それでは派手な音が立つし、すぐに人が駆けつけてくるだろう。自身の仕業であるとすぐに判明してしまうため却下する。
クルガンは固執せず、さっさと身を翻してその場から立ち去った。
+++ +++ +++
がり、がりりりりり、がりしゃあん!!
聞き苦しいことこの上ないその音が聞こえてきたその時、シードはびくりと背筋を震わせた。
間髪入れず、どすん、と何か重いものが倒れる音。
シードには、それがテラスに通じる窓に立てかけておいたオーク材の本棚が倒れた為の物だとわかっていた。
やばい。
シードはバネ仕掛けのからくり人形のようにベッドから飛び上がると、びたっ、と両手両足で床に着地した。
念のため寝室の扉にもバリケードは張ってあるが、あの男相手では幾らも持つまい。人目のないところではどんなことでもやる男である。
低い姿勢のまま辺りを見回す。
ベッドの下に目をつけると、シードは黒い害虫のようにかさかさと小刻みに手足を動かして、その下にもぐりこんだ。
腕だけ伸ばしてシーツを引き摺り下ろし、自身が隠れる死角を作るようにセッティングする。
(誰だ余計なことしやがったのは!)
あの男が自分から面倒ごとに首を突っ込んでくる筈が無い。
シードは容疑者最有力候補の自身の副官に思いつく限りの罵倒を浴びせながら、出来るだけ体を小さく縮込めた。
破壊音が引っ切り無しに響き渡る。
かろうじて外には聞こえない程度の音なのは、けしてシードに対する気遣いからではないだろう。
がたん。
多分キャビネットが倒れたのであろう、その音を最後にして物音が止んだ。
シードは息を殺して聞き耳を立てる。
自身のうるさすぎる鼓動と、それに掻き消されがちな絨毯を踏む微かな足音。シードの鼓膜がそれらを捉えた。
足音は扉からベッドへ、最短距離を通って真っ直ぐ近づいてくる。
「………………………」
侵入者はベッドの前に立ち止まった。
シードの視点からでは、その靴だけがかろうじて見える。
そのまま、数秒の静寂。
シードにとっては永遠にも思えるその空隙の後、部屋に涼やかな振動が響き渡った。
しゃん、と。研ぎ澄まされた音色。
シードにとっては聞き覚えがありすぎる。戦場で聞く、訓練でも聞く、戦いの始まりではいつも聞く。
言うなれば、研ぎ澄まされた細長い鉄が、その表皮を脱ぎ捨て外気に触れる時に立てる音。
そう理解したシードの背中に、一筋の冷や汗が伝った。
おいまさか。この男。