山中訓練。








『山中訓練』






金色の頭が振られる。
銀の刃に向かって。

「!!」

どうやっても鍛えようのない部位、その一つが首である。
そこには重要な血管と頚椎が走り、それを柔らかい皮膚が覆っているだけ。

ウィルドは躊躇い無く、鋭い剣に向かって、現在唯一動かせるといっていい頭を突っ込んだ。
口元に笑みすら浮かべながら。

背筋が凍る。
クルガンも大概無鉄砲な事をしてきたが、流石に自殺を試そうとした事はない。
数秒先の未来がわからない程愚鈍ではあるまいに。
腕に意思を伝える速度はこれ程遅かっただろうか。

「───っ」

吹き上がる血の幻視。
クルガンの目が僅かに見開かれる。

そこで刃の向きを多少でもずらす事が出来た事は賞賛に値した。
しかしウィルドは止まらなかった。顔面から二ミリと離れない位置にある剣と、ごつごつとした岩肌の間に、無理やりに頭を通す。
馬鹿な。
クルガンは更に手首に力を込めた。しかし、間に合わないだろう、と冷静な自分が頭の後ろで囁く。
こんな時まで柔らかい視線が、頬を撫でた気がした。


ざりっ、ざりざりっ


何かを擦る音。
金髪がはらはらと舞った。



「うお!?お、おおおおおおおお!!?」

何処か近くから人のものとは思えない叫び声が上がったが、クルガンは意識しなかった。
刃からの手ごたえは、肉を斬ったものではない。

来る。

(…………!!)

ど、と一瞬でこめかみに冷や汗が浮いた。
少しでも早くこの場所から離れようと、足が勝手に地面を蹴ろうとする。
生存本能。

クルガンの反射神経はけして鈍いものではない。
むしろその逆である。素人のパンチなら、相手が出してから反撃を考えても、充分彼の拳の方が顔面にめり込むのが早い。
一歩だけ、クルガンは飛び退いた。一歩しか飛び退けなかった。

びゅっ!

「!!」

目前に現れた巨大質量。
何なのか脳が判断する暇もなく、その向こうから真っ直ぐ突き刺してくる、眼光。
化け物。

そう思ったその一瞬、クルガンは自分の胸元からしぶく赤い鮮血を確かに見た。

「おああああああおおおおおおおおおおおおうう!!?」

耳を劈く悲鳴。
死のイメージ。

身体が凍りつき、意識もそれと共に動きを止める。
何を見た?自分は──

「どうした?少尉」

その声がかけられた瞬間、クルガンははっと目を見開いた。
現在目に映る光景を理解、把握、状況を判断。
それは素晴らしいスピードだったが、しかしそれでもその時には既に、悲鳴は遠ざかっていこうとしていた。

だからクルガンはそれ以上考える事を放棄し、体が反射で動くに任せるしかなかった。
再び地を蹴って前に飛び出した瞬間──その時にはもう状況はわかっていたが──彼は軽い溜息をついていた。






+++ +++ +++






「うお!?」

何が起こったのか。
シードは真剣に神様に問いかけた。

とりあえず、肩が抜ける。
本気でそう思うほどの負荷がかかった後、シードの身体は物凄い勢いで上昇した。
目を開けていられない。ふと、指先が自由になる。腕を放されたのだ。

(え?え?え?)

胃の底からひっくり返る浮遊感。
けして羽ではない体が、軽々と浮き上がる。

「お、おおおおおおおお!!?」

シードはウィルドに投げ上げられた。
一瞬送れて理解する。

────真上に。

(えーと……え、ええ?)

何の解決にもなっていない。
シードの脳がその結論を出すのに、一秒ほどかかった。

物を放り投げる。
頂点へ達する。
そのまま落ちる。

「おああああああおお」

泣いてもいいところだろうか?
シードは真面目に自問自答した。

既に折り返し地点は過ぎている。
ぎゅう、と絞られるように心臓が痛んだ。

崖のふちと誰かの足らしきものが一瞬見え、消える。
死ぬ、という実感はなかった。
只、とてつもない理不尽さを感じていた。

(………ざっけんなあ!!)

両手を必死に伸ばし、崖のふちに掛ける。

がっ!!
がりがりがりがりっ!

シードは指先に渾身の気合を込めた。
一瞬で外れた。

「おおおおおおおおおおうう!!?」

ばしっ

「いっ!」

再び肩が抜けるかという衝撃と共に、身体のあちこちが岩に擦れる。
前よりも幾分痛い。反動で僅かに身体が浮き上がり、また落ちた。
肩の痛みを無視してぶらりぶらりと体が揺れる。
思い出したように呼吸が荒くなり、意識が遠くなりかけた。ごくり、と唾を飲む。

「……………」

ひゅう、と耳と髪の間を一筋の風が吹きぬけた。
見てしまった足の下は、これ以上ないほどの恐怖を煽る。
これに、落ちる──?

シードは細く細く息を吐いた。
掴まれた手首の先を、恐る恐る見上げる。

「……重い」
「ちょちょちょちょちょちょっと待て!絶対絶対絶対絶対放すなよこの野郎!」

クルガンは切羽詰ったシードの顔を見下ろし、数秒黙考したようだった。

「重いんだ」
「だからどうしたー!!」

俺の命だ。軽くてどうする。
シードはもう片方の手を使ってクルガンの腕に取り付いた。この男は本気でやりかねない。
大きく吐かれた溜息は無視する。
シードは一刻も早く崖を上ろうと岩肌に足を掛けた。

「──其方ら、仲が良いのか悪いのかわからぬな」

ひたり、とクルガンの首の横に置かれた巨大な刃を見て。

「……なんか間違ってるよな」

唖然として呟いたシードの言葉に反論する者はいなかった。






+++ +++ +++






「どうだ、参ったか?」

にこやかにそういうウィルドを見上げ、シードは憮然と呟いた。

「……大人げねえ」
「確かに」

珍しくクルガンがシードの言葉に賛同する。

がしっ

その首根っこを、微笑んだままのウィルドが掴んだ。
何度目かの嫌な予感が、シードの背筋を走る。

「え?あの、ちょ、わっ?」
「────」

ぐいっ

信じられない。
シードはぽかんと口を開けて、浮き上がる(そして少々浮き上がりすぎる)自分の身体を見下ろした。上げ慣れ過ぎた悲鳴だけが友達だ。

「ぎゃあああっ!?」

ウィルドは芋でも抜くように軽々とクルガンを引っ張り上げ、ゴミでも捨てるように後ろに投げた。
ついでにシードも。

どすんっ
ごがっ

クルガンはどうだか知らないが、少なくともシードは硬い岩の上に盛大に身体をぶつけ、三回転半して漸く止まった。
確かに、確かに粉々になって死ぬよりはましだが、もっと他の扱いはないものか。

「…………………」
「…………………」

そしてしばらくの沈黙が通り過ぎる。
いや、言いたいことは多分沢山あるのだ。ありすぎて選べないくらいには。

「…………………」
「…………………」

ウィルドは振り返り、首をかしげた。

「?大人しいな。大丈夫か?」
「…………………………………………………ポジティヴ」

雄弁な無言の後、シードはそう返した。
擦り傷だらけの顔をどうにか持ち上げ、上半身を起こす。
クルガンは片膝をついて脇に居り、やはり世界の不条理について考えている顔をしていた。少しだけ気分がすく。

「なら良いが」

ウィルドは三歩でシードとの距離を詰めた。
自然な風で伸ばされる腕を馬鹿みたいにぼんやり見詰めていると、ぶち、と情け容赦のない音が首元で上がる。

「あ」

そうだった。
シードはすっかりこの戦いのルールを忘れ去っていた。ついでに言えば、目的も。
けれど断崖絶壁から自由落下の恐怖を立て続けに味合わされた後では、そんな事は瑣末に思える。

ウィルドは勿論札集めに興味はないのか、シードにそれを投げ返すと、クルガンに向き直った。

「其方は平気か?」
「Yes, Sir」

ウィルドはクルガンの喉元にも手を伸ばそうとして、その動きを止めた。
怪訝そうに眉を顰める。

「──其方、既に資格を失っているではないか」
「山猿に襲われて。不覚でした」

クルガンはすっと立ち上がり、氷点下の視線でシードを撫でた。
それを見たウィルドは納得したのか、腕を下ろす。

「……では何故私に?益の無い事はしない性質であろう」
「貴方を倒せば評価される、それだけです。ルカ様は何であれ使える剣に目をかけてくださる方、ルールなど瑣末な事だ」
「ふむ。良い判断だと言っておこうか」

成功すればの話だったがな。そう続けて、ウィルドはにこりと微笑んだ。
ぴきっ、と空気が凍りついた音が確かにシードには聞こえたのだが、将軍の耳には届かなかったらしい。

「……まだ何か?」
「いや、しばし待ってくれぬか。何か引っかかるものがあってな」

ウィルドはクルガンを見詰めたまま、しばしあごを撫でていたが、やがて大きく一つ頷いた。

「そうか、クルガン……漸く思い出したぞ。トラスタで一功たてたか」
「そのような瑣末事までご記憶とは」

す、と猛禽類のように鋭い顔を特徴付けるその瞳が細められる。
横のシードが身体を強張らせた。何の条件反射だろうか。

「否、少々不審な一件だったものでな。一度会って話を聞こうと思っていたのだが……うっかり忘れていた」
「不審と申されますか──」

クルガンはちらりとも動揺を見せない。いつものように、何事もないような平坦な表情と雰囲気。
だが、何故か横のシードの挙動が盛大に怪しくなっている。

「………………」
「………………」

しばらく観察しても面白いと思ったが、ウィルドは大人しく退いた。

「もう良い。其方の人となりを直に見て、大体想像はついたわ」
「それでは──」
「だが」

ふ、とウィルドは笑みを消して真顔になった。
攻撃的になったわけではないのに、それだけで別人のように見える。

「……だがひとつだけは訊いておこうか」

きしり、とクルガンの身体が僅かに緊張した気配がしたようにシードは思った。
落ち着く時間を与えずに、問いかけが突き刺さる。

「背後には誰が?」

それは国策を討議する将軍の目だ。
クルガンはそれを受け止め、軽く息を吸ってから言葉を紡いだ。

「──残念ながらそこまでは」

そうか、とウィルドは言った。割合簡単に納得したようだった。
シードは蚊帳の外だったにもかかわらず身体の力を抜き、長い溜息を吐いた。

それを見計らったかのようにウィルドはシードに視線をやり、訊いて来た。

「それで、軍曹は?」
「は?」

虚を突かれたシードは、最大限に間抜け面を晒した。
流石に指差して笑うほどウィルドは礼儀知らずではなかったが、それでも口元を手で隠し、笑みを含んだ視線で続ける。

「理由だ。相手なら他にもいたであろう、わざわざ私に挑んだ理由は何なのだ?」
「え──」
「それ程勝率を高く見ていたか。それ程驕っていたか?」
「そんなモン……」

シードはしばし言葉を探した。

「考えてなかったです」

言ってから、気付いたようにはっと顔を上げた。

「ああっ!?『この男にそれ程高い知能があるわけがない』とか言うなよ!?」
「何も言っていません」

気付いているようなら言う必要もないでしょう、と続けたクルガンの台詞は幸いにも聞いていなかったのか、シードは少し黙った後ウィルドを見上げて言った。

「考えてなかったっていうか……そりゃ考えてなかったんだけど、考えるまでもなかったっていうか」

クルガンは興味もなさそうに聞き流している。
いや、既に予想しているのか。

「只、やってみたかった」

見上げてくる意志の強い赤茶の双眼。
続く言葉を三秒ほど待ってみたが、どうやらないらしい。

ウィルドは一度瞬きをして、くすりと笑った。
二人には聞こえないように呟く。

「成る程」

対照的な理由だ。
何処までも打算で動くクルガンと、衝動で動くシード。

「──足して割って丁度と言った所か」