山中訓練。







『山中訓練』






「────っ!?」

がっ、と。

伸ばしていた腕を物凄い力で掴まれ、全体重が掛かった肩が抜けるかと思われた。
がりがりと膝小僧が岩肌を擦る。二、三度大きく揺れた体を支えるものは、それでもびくともしない。力強く握り締められた手首が痺れる。

反射的に見上げれば、崖の淵からこちらに腕を伸ばしている将軍の顔。

(………流石だなー)

シードは自らの状況も忘れて感心した。
あの状況下、一瞬の判断で驚愕と混乱から立ち直り、こちらが落下しきる前に捕まえて支える事が出来るなど、正に常人では有り得ない。

「あ、ありがとうゴザイマス……」

不安定な状態で揺れる体を出来るだけ統制し、壁面に爪先を着く。
ウィルドの膂力は知っている、少々無茶をしてもこちらを落としはしないだろう。

ふう、と一度息を吐いた途端、思い出したように心臓が早鐘を打ち出した。
なんて事だ。深呼吸を二回繰り返し、高ぶった神経を無理矢理に宥める。
一度目を閉じて、目の前の岩肌を見詰め、ゆっくりと三秒数えた。

「…………」

絶対に下は見ないで置こう。
シードは硬くそう決意する。この手を離されたら、自分は木っ端微塵だ。数百単位に分解されてもおかしくない。
死に方を希望できる身分ではないのかもしれないが、出来ることならそんな未来は全力で回避したい。
掴まれた手首は安定している。揺れが完全に収まれば壁面を登るのも簡単だろう。

「……なるべく早く登ってくれると嬉しいのだが」

頭上から落ちてきた声に、シードは軽い笑いを浮かべた。
ウィルドの腕はシードを十分や二十分支えたところで揺らぎもしないだろうに。

「ウィルド将軍ともあろう者が、そんな弱音──」

そう言いながら再び見上げたシードは、前言を早々と撤回する事にした。





+++ +++ +++





月明かりを遮り、後ろに立つ気配。手遅れだったようだ。
ふう、と本気ではない軽い溜め息が口をついて出る。

「……中々に素早い行動だ。気配の絶ち方も見事」

シードの足場を魔法で砕いてから、ここまでの距離を詰めるのに十秒とかかっていない。
そこまでの接近を許していたことも、行動の迅速さも、軽い驚愕に値する。

「──私も些か耄碌したかな」

一瞬も空けず、完璧な発音の、その癖平坦な声が返って来た。

「お褒めに預かり至極光栄です。准将閣下(フリケディアージェネラル)
「また丁寧に呼んでくれるものだな」

ウィルドは苦笑いをした。
地に伏せ、片腕を動かせない状態にあっては、アジャ・カティも役に立たない。
勿論シードの手を離せば自由になれる。だが、その結果がわからない人間はいまい。

「しかしそれも彼の働きが無ければ果たせなかった事。過ぎた評価かと」

ちらり、と男はぶら下がった赤毛に一瞥をくれる。

「……そりゃねぇよアンタ」

下から投げ上げられた非難の台詞を、男はあっさりと無視した。
ぽかりと口を開けたシードの間抜け面が見え、ウィルドは今度は少し声をあげて笑った。
興味が湧く。この赤毛の青年も面白いと思ったが、また違うタイプだ。

「名乗るが良い。此方からは顔も見えぬでな」
「これは失礼を」

ぴしり、と彼が敬礼をしたのが、ウィルドには見ずともわかった。
完璧な角度と鋭さを持つ無駄の一切ない動き。聞こえた声だけで判断している想像は、そう的外れたものではないだろう。

「第四軍第二師団所属のクルガンと申します──階級は少尉(セカンドルテナン)

圧倒的優位に立つ傲慢さか。
クルガンの物腰は些か慇懃無礼とも言える。
ウィルドは彼の常態がそれであることを知らなかったが、気にした様子も見せず問いを重ねた。

「軍曹とは知り合いか?」
「Yes,sir」

間髪入れずに端的な答えが返る。

「友人か」
「No,sir」

やはり間髪入れずに答えが返った。
シードは予測していたようで、半ば諦めたような表情のままウィルドの腕にぶら下がっている。

ウィルドはもうひとつ訊いた。

「其方の策を、軍曹は理解して?」
「No,sir. その男にそんな器用な真似は出来ない」

クルガンはゆるゆると首を振った。
ウィルドは質問する間に再確認した状況を検討する。
シードを引き上げる仕草を少しでも見せたり、シードが壁面を登ろうとしたりすればすぐさま彼の剣が振られるだろう。

「ひーきょーうーもーのー!!」
「黙りなさい赤猿。そう思うなら自分から手を離して将軍の苦労を減らせば良い事だ」
「言うに事欠いて何だそれ!?俺に犠牲になれってのか阿呆!」

シードが目を剥いて怒鳴る。現在、彼の攻撃方法はこれ以外にない。
ダメージが薄い、もしくは殆どないという事をわかってはいたが、シードは言わずにおれなかった。

「いたいけな青年を騙して利用しやがって!」
「誰の事ですかそれは」

クルガンはわざとらしく溜め息を吐いた。

「それに騙したとは人聞きの悪い。言わなかっただけで、これも作戦の一環です。そもそも貴方に其処から飛び降りろと言ったところで素直に──」
「従ったらそりゃ気狂いだっての!!このボケ!鬼畜!!」
「……皇国兵士の誉れとして名を残せますが。過去の美談を再び甦らせるのもまた一興」
「ざっけんな!!面の皮が厚いにも程があんぞ!」

ぎゃんぎゃんと吠え立てるシードの言葉にはもう構わず、クルガンは一歩踏み出た。
無造作なように見えるが、よしんば反撃をされても安全なように完全にウィルドの死角に回っている。

ウィルドは大体のところのクルガンの性格を掴んだ気がした。『君子危うきに近寄らず、遠くから石を投げろ』というタイプだ。
最後まで油断なく着実に、確実な道を歩く。
少ない労力で相手の意表を突く──更には目的のためには他人からの評価を全く気にしない。

「──軍曹の意見にも頷けるところがあるな」

うんうん、と実際頷いて見せて、ウィルドはしかつめらしい顔で言った。

「これは少々……そう、『セコい』のでは」

クルガンはやはりにべもなかった。
婉曲でない非難にも全くたじろがず、淡々と言葉を返す。

「こうでもしなければ貴方には勝てません」
「──冷静な判断も良いが、些か味気無くはないか?」
「性分ですのでお気になさらず」

身動き出来ないウィルドの背後から、クルガンはその鎖を断ち切ろうと剣を伸ばしてきた。
刃が首に当てられ、引かれようとするその瞬間、ウィルドはこう言った。

「それを切ったら私はこの手を離すぞ」
「オイオイオイオイオイっ!?」

ウィルドの手の先から悲鳴に近い声が上がるが、それは二人の会話に少しの支障もきたさなかったようだった。

「構いませんよ」
「更に待てっ!!」

眩暈がする状況。シードは歯噛みした。
自身では覆せない現状と、銀髪の男に対する憤り。
流石にこの体勢でばたばたと暴れ出すほど愚かでもないが、じっとしていてもいられない気がする。

「では」

止まったクルガンの刃が再び動き出そうとする刹那、ウィルドは再び口を挟んだ。



「少尉。……私が本気でないと思っているか?」



瞬間、頬の辺りが少々引き攣ったのは、シードだけではないと思いたい。



マジですか神様。俺の人生、ココで終わり?
一瞬真剣にそんな台詞が浮かぶほど、ウィルドの言葉には重みがあった。

「…………………」

ウィルドの首筋に突きつけられた剣がわずかに揺らめいた気がした。
しかし、瞬き一つしたと思った間に、その幻は消えてしまう。シードは、ごくりと喉を鳴らした。

クルガンは二秒だけ沈黙し、その後いつも通りに口を開いた。
その二秒で、シードは何度地獄をシミュレートしたかわからないが、気にしてくれる者がいないことだけは断言できる。

「貴方は手を離しますまい」
「何故、そう言える?」

ウィルドがシードの手首を掴んでいる。
その力には変わりがないのに、どんどんと頼りなくなっていく感覚がするのは何故だろう。
シードのこめかみをじわりと冷や汗が伝う。

クルガンは一度息を止め、滑らかに吐き出した。


「──その男は貴方の敵ではないからです」


ウィルドの首筋から二ミリと離れないところでその刃を支えながら、クルガンは続けた。

「貴方は殺せない」

ウィルドの瞼が一度閉じられた。
これはあくまで山中訓練。シードはウィルドの敵ではない。
国を守る力の一角。アジャ・カティで無為に削ってよいものではないのだ。

クルガンは、テキストを読むようないつもの口調で論理を組み立てる。

「……私の狙いなどすぐに見抜けた筈だ。だが迷わずその男を助けた」

金色の眉がやや寄せられた。
シードを掴む腕に、更に力が込められる。

「プライドと秤にかけて皇国兵を見捨てられるくらいなら、そもそも腕など掴まない筈」
「……其方、厭な奴だと言われた事はないかな?」
「厭きる程に」

そう言い放ってから、クルガンは異変に気付いた。

「…………?」

こちらを見上げるシードの顔が、これ以上ない程に強張っている。
ウィルドの顔はクルガンからは見えない。

緊張感のない明るい小さな笑い声が、金髪の将軍から放たれた。
クツクツと喉を鳴らして、ウィルドは機嫌良く唇を開く。



「『貴方は殺せない』……か。これは一本取られたな」

首筋に突きつけられた凶器をものともせず、ウィルドはそこに在る。
苦笑い。飼い猫に手を引っ掻かれた程度の。


「少尉。其方は頭が良いな。それは認めよう」

だが、少々見落としてはいないかな。


「この状態ならば侮られる程」
「……っ!」

クルガンは、まだ自分が相手の力量を測りきれていなかったことに気付いた。

私は、そんなものか


ぞくり、とクルガンの背に悪寒が走った。