山中訓練。
『山中訓練』
「───人の気配などというものは有り得ない」
垂れ落ちた蔦を首の動きだけで掻い潜り、クルガンは呟いた。
後に続いていたシードが、木の根を跨いでから顔を上げる。
「はあ?」
「存在しない、と言ったのです」
「はあ」
シードはあまりに唐突な言葉を、それでも理解しようと努めた。懸命な判断である。
しかし、何を言っているかと言うことすら掴めないまま無常に数秒が過ぎ、クルガンはシードの思考を待たずに言葉を接ぐ。
「気配と呼ばれているのは、正確には僅かな音や空気の動きに過ぎない。雑音が入り混じる戦場で、人の気配が読めますか」
「読めるけど」
「そうですか」
シードの反論を、クルガンは全く気にしなかったようだった。
剣の鞘で僅かに下草を押さえ、一歩踏み出す。
「私は読めない」
ひゅっ、と、その言葉が終わらないうちに拳が風を切った。
「…………」
体を横に捌く事で背後からの一撃をかわし、クルガンはシードの腕を掴む。
振り返らないまま、尋ねる。
「殴らないのではなかったのですか」
「避けると思ってたさ」
にやりと笑ってシードは腕を下ろした。クルガンも特に力をいれることなく手を離す。
「わかんじゃねぇか、気配」
「貴方の行動の予測と、布の擦過音。それだけです」
大体、人の視野は意識するより広く、視界の隅に何かを捕らえていることも多いのだ。そうクルガンは続けた。
五感が察知するなんらかの不自然な変化、それを気配と便宜上呼んでいるのだ。クルガンは再び足を踏み出す。
柔らかく沈む靴底。繊維だけを残して落ち葉は泥に混じっている。
「死体に気配を感じますか」
「いや?」
「呼吸もしない。鼓動も動きもない。わからないのは当然だ」
「つまり、動かなくて音を立てない人間の気配は読めないって?」
「ええ。無いものは読めない」
断言。
納得出来ずに、シードは眉を寄せた。僅かな月明かりすら遮られる夜の山道、案内は目の前の男だけ。
「殺気は?」
「無い」
クルガンはこともなげに言った。
「殺意は存在します。だが殺気は存在しない」
「けどさ」
「何故そんな面妖なものが察知できると言うのか訊きたい位だ」
音ならわかる。空気の動きならば。目に見えるものも。
しかし第六感などというものはクルガンはあてにしていなかったし、自分が持っているとも思わなかったし、信じてもいなかった。
殺気や、気配などというものが、音や振動以上のものならば。
それこそ気配を絶ったり、隠すなど出来る筈もないだろう。距離や時間とも関係なくわかる筈だ。
そこまでシードに説明する気はなかったので、クルガンは言わなかった。
「面妖って、アンタなァ」
「音を立てたり動いたりするから、相手に気付かれる。相手を意識するとか殺意を抱くとか、精神的感覚が原因になる事は無い」
「まあ……そこまで言うなら、別に良いけどよ」
「逆に言えば、音を立てたり動いたりしなければ気付かれない」
「や、まあそりゃそうだな」
「それでなくともウィルド将軍の事だ、普段より更に慎重に距離を取らねばならない」
「うん」
シードは太い枯れ枝を踏んでバランスを崩した。とにかく暗いのである。
近くの木の幹を掴んで踏みとどまったが、頭を張り出した枝にぶつけた。
顔をしかめて軽く額を手で擦る。
ふと、冷ややかな視線に気付いた。
「?」
クルガンが立ち止まり、振り返ってこちらを見ている。
呆れの色が混じっているとシードは看破した。躾のなっていない子どもを見る目だ。
酷薄な唇から軽く息が吐き出される。
「わかりませんか」
「何が」
「煩いと言っている」
クルガンはシードの足元と顔を順番に眺めた。
どさ、とタイミングよく、シードがぶつかった木の上から振動で枝が落ちてきた。
「冬眠中の蛙だって貴方の接近に気付きます」
「多分もう冬眠からは覚めてるんじゃねえかな、この季節」
赤毛をがしがしと掻きながら、言い訳にもならない台詞をのたまう。
ふと、気付く。
「アンタ、言いたかったことってそれだけ?」
「まあ概ねは」
「……なんて遠大な回り道だ」
クルガンは取り合わず、再び前を向いた。
手袋をはめた指先で、丁寧に草を掻き分けて告げる。
「貴方に多くは期待しない。黙るか、黙るか、帰るかしなさい」
怒っているのだろうか。シードは大人しく、静かに動くことにした。
よく観察してみれば、クルガンは移動の際殆ど音を立てていない。
それを真似してついていく事にする。それが確実な方法だろう。
「あのさ、聞きたいんだけど──」
暗闇の中、感覚を総動員して周囲の状況を探り歩く。
またも激突しそうになった、低い位置に張り出した枝を寸前で避ける。
「やっぱ小細工アリなわけ?」
「無しで勝てる自信があるのですか」
本当に不思議そうに訊くな、とシードは渋面を作った。
「そこはまあアレだよ、努力とか勇気とか友じょ」
「ありません」
「……最後まで言わせろよ」
早くはないが優雅な足取りで前を行く青年。
幾つ上かな、とシードは考える。必要がなければ振り返らない。無駄な事はきっとしない。
どんな人生を生きてきたのか知らないが、シードには理解し難い性質だろうと思う。
たぶん、とシードは口の中で呟いた。
簡単なことなのだ。殺気が存在しないのではない。
「アンタが、感じないだけなんだと思うぜ」
懐の狭い男だ。シードは溜め息をついた。
きっと、恋情や憎悪の気配すら、理解はしても感じはしない。
鈍い男だ。
+++ +++ +++
皓々と照らす月明かり。
遮るものとてない岩場では、直線的に光が降って来る。
冷たい岩肌に体温を奪われるのを嫌い、ウィルドは自身のマントを惜しげもなく敷いて寝転んでいた。
上等の仕立てのそれでは有るが、元々マントなどというものは装飾ではなく実利のためについているもの、ウィルドは欠片も気にしない。
二日目、夜。
ウィルドは薄目を開けた。
うとうととまどろんでいたのではあるが、流石に自分の探査領域に他の人間が入り込んだのでは目が覚める。
実際、岩場を選んで腰を落ち着けていたのは、不意打ちや罠を警戒したからである。硬い岩では足音を殺される心配もないし、すぐに振動が伝わる。
気配はゆっくりとこちらに近づいてくる。一応足音は抑えようとしているらしい雰囲気だ。
ウィルドは枯れ草の山の中で完全に目を開けた。
山の夜は冷える。立ち枯れていた草を大量に刈り取って、自身の上に広げて寝ていたのである。
副官が見たら威厳がどうのと説教されそうな姿であるが、ウィルドは『月明かりの下、冷えた岩場に上半身を寄りかからせ、剣を脇に添え静かに眠る騎士』などという絵を作るより、居心地よく暖かに過ごす方に利を見出していた。
更に言えば、敷物は先程も述べたように高級なマント、上掛けは清潔そうな草だけを丁寧に選んで集めたものである。上等だ、副官も文句は言えまい。
挑戦してくる兵を片付ける事よりも余程手間暇をかけたねぐらに、ウィルドは軽く愛着すら感じていた。
(一人か)
ウィルドは無造作に、上半身をのそりと起こした。枯れ草がばらばらと落ちる。
ぱしぱしとそれを軽く払って、ウィルドは顔を上げた。枕に使っていたものを左手で掴み、軽く頭上に掲げる。
がきぃぃいいいいいいんっ!!
月夜に、硬質かつ大きな金属音が響き渡る。
これに驚いた動物達は、すぐさまその場を立ち去っただろう。音自体に鋭さを持たせるのは割合簡単である。
(……思い切りの良い事だ)
ウィルドは感心か呆れか自分でも区別のつかない感想を抱いた。
自身の接近が察知されたと気付いた一瞬で、相手は躊躇もせずに速攻に切り替えた。普通、退くかどうかの逡巡に僅かな戸惑いが生まれるもので、尚且つウィルド相手に身一つで斬りかかるには、相当な度胸が必要とされる筈なのだが。
しかも、有り得ないほど重い一撃だ。
ウィルド自身、腕力にはかなり自信のある方だが、体勢の不利さを差し引いても感嘆すべき力の入った攻撃。余程の膂力を持つ相手だ。
左手だけで衝撃を殺すことを諦め、ウィルドは右手を添えた。ぎしり、と腕の骨が鳴る。
ウィルドが枕にしていたものは、彼自身の剣である。
鞘に手ぬぐいを巻いて頭の下に敷いていたのだが、その手ぬぐいは今の一撃で切り裂かれた。
鈍く黒ずんだ銀色の鞘があらわになり、ウィルドの目が細められる。
反動で押し返すと、割合すんなりと相手は離れた。
間合いを取って対峙してくる。ウィルドは余裕を持って立ち上がった。
別に当てつけている訳ではない。幼い頃からのしつけが、どんな時にも慌てた行動を許さないのである。
赤毛の青年。それもかなり若い。
若さ故の無謀と、生来の気質故の挑戦か。ウィルドは青年の口元に浮かぶ昂揚の笑みをみとめ、軽くそう看破した。
気力溢れる若者との手合わせは、例え相手が未熟であろうともそれ故に楽しいものだ。
ウィルドは鞘に纏わりついていた手ぬぐいを払った。
ウィルドの剣は異形をしている。
長さは丁度人の腕ほど、刃渡りはその約四分の三ほど。片刃。
長さは然程変わらないのだが、重さはハイランド兵に支給される剣と比べて倍はある。
湾曲した広刃の刀身と大きな柄頭、肉厚のその姿は、先ず質量だけで他者を圧倒する。
曲刀と言えば一般的なのはシミターやシャムシールだが、同じ曲刀でもそれとは違い、鉈の、先端部分だけを更に叩きのめしたような、特徴的な幅広の刀身。
ともすれば粗野になりがちな曲刀、それも特別に奇異な形のものの筈なのだが、何故か優美。
圧倒的存在感を放つその剣を、ウィルドは殆ど左腕一本で扱ってみせる。
余程優れた膂力とバランス神経がなければ不可能だろう。
赤毛の青年は、軽く口笛を吹く真似をして見せた。
わくわくとした、子どものようなはしゃいだ表情で訊いて来る。
「それが噂に名高いアジャ・カティですか。三合と斬り結んだ者はいない──」
「気恥ずかしいので止めてくれぬか」
ウィルドは真剣に頼んだ。
青年はやや不満そうな顔になったものの、大人しく黙る。
そのまま数秒。
「……………………」
「……………………」
ウィルドから斬りかかる気はなかった。
青年の出方を待っているつもりだったのだが、剣を構えたまま一向に近づいてこない。
あれだけの思い切りを見せて斬りかかってきたのだ、今更臆しているわけでもあるまいに。
相手も、きょとんとしてこちらを見ている。
不審に思い、ウィルドは訊いた。
「……かかって来ぬのか?」
「そちらこそ、何故抜かないんです!」
不満を見せて、青年が言う。鞘がついたままでは剣は更に重くなるし、何より真剣味が薄い。
若さゆえの不遜に、ウィルドは寛容だった。冗談めかして言う。
「錆びた剣の手入れは大変なのでな」
「理由になりません」
「咄嗟に峰討ちには出来ぬやもしれぬと、褒めているつもりなのだが?」
「……将軍、嘘を吐くのが下手だってよく言われるでしょう」
図星を突かれたウィルドは困ったように笑った。
青年は勢い込んで言う。
「それに、それって褒めてません。結局、俺が負けること前提じゃないですか」
「ならば自信があると?軍曹」
「別に無いですよ。でも俺、舐められるのが嫌いなんです」
勝気な性質だ、戦士には必要な素質だろう。だが損もする。
吠え立てる犬のイメージを重ね合わせて、ウィルドは再び笑んだ。
命のやり取りを経験すれば良い戦士になるだろう。
きっとこの赤毛の青年は、実力の拮抗した相手に殺意を抱かれ相対したことがないのだ。
やや童顔のウィルドではあるが、この青年よりは一回り年を重ねている。
ウィルドはあやすように首を振ってみせた。勝負に絶対はないことは、誰に言われずとも知っている。この青年よりも。
ウィルドは言葉を選んだ。
「別に其方を侮っておる訳ではない。勝負は時の運であろう?」
「なら」
赤毛の青年の台詞を表情で制し、『左鳴り』は言う。
この青年、ウィルドから見れば少年とも言える兵士は、どのような器に育つのか。
「しかし其方は私の敵ではないのだ」
赤茶色の瞳が怒りに煌いたのを、ウィルドは微笑ましげに見詰めた。