山中訓練。







『山中訓練』




「ぃよう!」

シードは、ざばりと片足をせせらぎから引き抜くと、軽い笑顔を浮かべてそう言った。
挙げた手のひらを、ついでのようにクルガンの肩に無遠慮に引っ掛け、ぱしぱしと叩く。

「うわー、久しぶりだな!そういやあの時から全然会う機会なかったし、結構懐かしいモンだよなぁ」
「………多分、貴方はこの状況をよく理解していないのだと思いますが」

呆れた様に呟いたクルガンが、肩に乗せられた泥まみれの手をさらりと払う。
それを見たシードはにこにこと笑い、

「いいや、ちゃんとわかってるぜ」

ひゅっ
ぱしっ

「!!」

間髪入れず首筋を狙った手刀が、手首の返しで跳ね上げられた鞘に弾かれる。
至近距離で殆ど同時に出していた膝が、クルガンのわき腹に突き刺さった。様に見えただけで、実際は半歩下がった彼を強く押した程度のダメージしかないだろう事もシードは良く知っている。

交錯する視線。

切り取られた一瞬の後、一方が軽く下がった。

「……………いきなりとんだご挨拶だ」

一メートル半程距離を開けたクルガンが、そう言ってくる。自分の事はこれ以上ない程見事に棚に上げている台詞だが、それについての反論は取り合えず何処からも降って来ない。
シードは、いまだににこにことしながら、こう返した。

「アンタだろ下流の水飲めなくしたの」

ぱちり、と瞬きをひとつした灰色の目。

「………………………」
「見つけたら殴るって決めてたんだよ」

………札を取ろうとしたのではなかったのか、とクルガンは素直に勘違いを訂正した。まあ、人に殴りかかるのにそんな理由も彼なら『らしい』と言えるものだろう。
威嚇するように二、三度こぶしを手のひらに打ちつけてみせた後、しかしシードは何を思い直したのかそれを降ろした。

「まあイイや、アンタを殴る用件は別にあるから、そん時まとめて返しゃいいよな」
「…………そんなに度々気軽に殴られる覚えはない」

その台詞は聞こえていない振りをしてあっさりと身を退くと、シードはクルガンに背を向けて、せせらぎの上に再びかがみ込んだ。
手を使う間も惜しいのか、頭ごと突っ込むような体制で水に口をつける。動物の飲み方だ。

むき出しの首筋が目に入る。

それは言うまでもなく呆れるほど無防備だったのだが、クルガンは黙ってそれを見ていた。多分、気分は生態観察に近いのだろう。

「…………………ぷは」

数十秒程度、息継ぎもせずに唇を浸していたシードが顔を上げる。濡れた前髪が跳ね上がり、辺りに飛沫を散らした。
汚れ果てた顔と手まで存分に洗って、それからようやくシードは再びクルガンに向き直って見せる。

「──改めて、久しぶり」
「そうですね」

今の今まで忘れていましたが、などと余計なことはクルガンは言わなかった。
シードはうんうんと頷くと、またもや親しげにクルガンの肩を叩いて(そしてまた手を叩き落とされて)、その場にどっかりと腰を下ろした。見上げながらこうのたまう。

「悪いけどここでちょっと寝るわ」

寝かせて貰う、ではなく既にそれは宣言である。

「すっげぇ疲れてんだ、話は後でさ」
「いや別に話は」
「二三時間で起きるから、それまで待っててくれよ」
「人の話を聞きなさい」

クルガンの言う事は欠片も耳に入っておらず、シードは拳が入るんじゃないかと思うくらい大きく口を開けて欠伸をしてから、当然のようにこう言い足した。

「ちゃんと見張っててな」

そして目を閉じる。
すぐに聞こえてくる穏やかな呼吸音。

後に残されたクルガンは、数秒の沈黙の後、諦めたようにこう言った。

「………やはり、貴方はこの状況をよく理解していないのだと思いますよ」

落下するように眠りに就いたシードには、もうその台詞は聞こえていなかったのだが。





+++ +++ +++





「………何、ソイツ」
「知らない人間ですが」

目を覚ました瞬間、一種異様な光景に直面したシードは、反射的にそう聞いていた。
振り向きもしないまま淡々とした答えが返る。だが、聞いているのはそんな事ではない。

「いやだから………アンタ何してんの」
「俗な言い方をすれば、彼の懐を漁っている」

シードをそこに眠らせたまま、クルガンは狩りを続けていた。
むしろ、せせらぎよりも、丁度良いからあまりに無防備に寝こけているシードを餌にしていたのだが。

寝起きの頭で、珍しく常識的なことをシードは口に出した。

「いや…なんていうか……アンタがやると絵的にキツい行動ってあると思うんだけどソレもかなりその一種だと思うんだけど」
「褒め言葉として受け取っておきます」

まるで追い剥ぎだ。
しかもそれがやけに手馴れているので余計に頭痛が増す。

シードはがしがしと頭を掻いて、もたれていた木から身を起こした。
クルガンはもうその時にはあらかた調査を終えていたようだ。意識をなくして横たわる見知らぬ誰かの首から札をもぎ取ると、興味も失せたように(元から興味があったわけでもないのだろうが)立ち上がる。
こちらに視線もくれないまま、クルガンはこう言った。

「手伝いなさい」
「?何を」
「これが目を覚まさないうちに遠くに捨てて来てください」

これ、というのは、クルガンの足元で気絶している者のことだろう。

「一番大変なトコ押し付けられてるような気がすんだけど。っていうか一番の問題はソコじゃねぇんだけど」
「では何が」
「アンタ何してんだって聞いてんの!───『山中訓練』とか答えたら殴るぞ」

先回りして答えたシードは、こう思った。多分はぐらかそうとしているわけではないのだろうが、もしかしてからかわれてはいるのかもしれない。

「………『札集め』と言い換えましょうか?」
「だから、それで追い剥ぎする必要が何処にあんだよ」
「…………貴方のそれは、天然で言っている台詞なのですか」

シードが何度も何度も抱いた感想を、相手のクルガンは返してきた。何故か軽い憤りを覚える。
まあ、シードが本気だと知ると、クルガンはきちんとシードにもわかるくらい明瞭簡潔に、行為の意味と意図と成り行きを説明してくれたのだが。

聞き終わったシードの反応は、次のようなものだった。

「………なんかズルくないかソレ?」

何故ですか、と即座に返ってきた言葉に、シードは眉を寄せて渋面を作る。

「だってそれ札の枚数分アンタが倒したワケじゃねぇじゃん」
「禁止されてはいない」
「イヤそりゃ言われなかったけどさぁ」
「普通でしょう。というよりは、むしろ貴方以外の者は全員やっていると思いますが」

成る程、こちらがずれているのか。
いやちょっと待てこの男の方が常識人なのか。

ぐるぐると悩み始めたシードに、クルガンは溜め息をついてこう言い足した。

「発覚しなければ良いのです」
「それってすっげー危険思想………」

深くて長い溝を埋める作業をシードは諦めた。

三歩下がって、クルガンを上から下まで眺め直す。疲労と緊張からやや回復した脳みそを動かし、状況を軽く整理してみた。

しかしそれでも、次に発した言葉にやはり唐突かつ意味不明な感があるのは否めなかったが。

「………アンタなんでまだこんな所にいるワケ?」
「貴方に居場所を指図される覚えはない」

もっともな台詞をクルガンは返したが、シードは納得しなかった。
少し首をひねって尋ねる。

「だって士官学校出りゃ准尉から入れるだろうがよ。あれから大体一年くらい経ったか?アンタ今の階級は───」
「少尉ですが」

一年で一段階昇進。普通に考えればそこそこの出世だが、やはりおかしい。
それは例えば、高等教育を受け士官学校を卒業した上流階級の出の若者、それくらいの昇進スピードである。いくらなんでも遅すぎるだろう。

「……………………………」
「……………………………」

互いに眺めあったまま、過ぎる十数秒間。
シードはひとつの可能性を口に出した。

「………実は無能なのかアンタ?」

それとも上司に嫌われ、足止めされているとか。
この男の態度なら有り得過ぎる、とシードは一人で納得した。

クルガンはそれを見やり、

「貴方程無礼な人間はそうはいませんね」

氷点下の視線にシードは気付かず、更に台詞すら聞いていない。

そういえば。と思った。
はっきり言って、貴族の子弟ならば何もしなくとも最初から大尉か少佐、良い所の出なら准将以上からのスタートなのだ。
それが何故、少尉───あのときは准尉だったか?
沈思黙考の後、シードは顔を上げた。

「………何やったんだ?」

神妙な態度で尋ねる。

「どういう意味です」
「なーんかまた上司に物凄い反感食らうようなことして、やりすぎていったん官位剥奪されたんだろ。笑わないから言ってみ」
「もう非礼については何も言わないが………なにか勘違いをしていませんか」

カンチガイ?
やや首を傾げて問い返すシード。クルガンは肯いた。

「私が最初から高官位を拝借できると決めてかかっているようだ」
「だってアンタは貰えんだろ」
「何故ですか」
「何でって普通そういうモンだろ」

思い込みの激しいシードには、はっきり言わないと伝わらないようだ。
クルガンはやや眉を寄せて、誤解を解くべく決定打を口にする。


「───私には姓すらありませんがそれでも?」


わざわざこんな説明をするのもされるのも、どちらも相当に馬鹿らしい。


クルガンが事実を明瞭に告げてからきっかり七秒後。
シードは深刻に、生真面目な顔で首を振った。


「…………………………………そりゃ詐欺だよアンタ」
「失敬な」