山中訓練。
『山中訓練』
「…………………」
シードは鬱々としながら、重い足を引きずり歩いていた。
木々は視界を遮り(それでなくとも辺りは暗かったが)、外にいるのに閉じ込められているような感覚。気が滅入る。
「ちくしょ………」
今、この一度で良い。
思い切り叫びたい。
できない事がわかっていると、余計にやりたくなるのが人間というものだ。かろうじてまだ自制は効いているが。
緊張でこわばった体を無理矢理ほぐすように、シードは腕を伸ばす。
伸びをすれば少しは楽になるかと思ったが、モチベーションは変わらなかった。
シードをして、担いだ剣が重く感じるのは余程の事だろう。
慎重に。慎重に。
この言葉をシードは苦手としていたが、好き嫌いを言っている場合ではない。
シードは寝場所を探していた。体は真剣に休息を欲している。この状況でなければ、泥の上だろうが構わず今すぐ寝転んでいた筈だ。
しかし、無防備なところを晒すわけにはいかない。
この板ばさみを解決する為、シードはねぐらを見繕っているのだ。
「っと」
く、と軽く首が引き止められる感触。
細い枝に、鎖が引っかかったらしい。
持てる神経を総動員して、シードはゆっくりとそれを外した。この鎖が切れたらそこでもうゲームオーバーである。
細い細いそれは見るからに繊細に出来ており、一度切れたらこの山中、素手で繋ぎなおす手段は無いといって良い。
手先の器用さは人並み以下という自覚があるシードにとっては、一度それが切れてしまったなら、繋ぎ直そうなどとは考える事も出来ない。
周囲の気配を探る事に感覚を費やし、ろくな睡眠も、食事もとらないままの山中訓練二日目。
通常の山中訓練であるならばまさか二日目で苦痛や疲労を感じるなどありえない(しかし勿論、シード以外の一般兵ならそれでも充分辛い)が、ここまで厳しい山の中を、ろくな装備もなしに、始終気を張って過ごすなどやはり少し辛いものがある。
腹が空いたし、喉が渇いた。何より疲れていて、それに眠い。
それなのにそれを全て隅に追いやって、土にまみれながら歩いている。
何故こんな事をしているのかといえば、答えは簡単だ。
シードは出世したいのである。
+++ +++ +++
「───期限は、三日だ」
七百五十余の兵を前にして、年齢に反し既に成熟しきった貫禄を持つ皇子、ルカは短い説明をそう締めくくった。
シードはその集団の中ほどに居て、騎乗のルカの話を聞いていたのだ。
皇子主催の山中訓練。自主参加のその訓練に参加したのは、資格のある者の内一パーセントにも満たなかった。シードには予想できた事だったが。
野望があるもの、自信があるものしか参加するのを控えるだろうこの山中訓練。
これにて目覚しい動きをすれば、将への道も夢ではない。
ハイランド皇国軍の上層部は、昔から貴族で占められている。自然、兵を率いるのはその血に連なるものである。
悪くても、金のある上流階級の息子(それも高等教育を受けて士官学校を出た)でなければ、少尉以上の位につけるものではない。
平民上がりの一般兵、下士官にとっては、実力主義のルカ皇子の目に留まること、それだけが唯一の手立てなのである。
ルカは漆黒のざんばら髪を風に靡かせ、血筋に似合わぬ粗野な笑みを浮かべている。
その隣には第四軍の<左鳴りのウィルド>が控えていて、先程からシードにはそれが疑問だった。
ウィルド第四軍副将軍は剣の腕も名高い実力派である。大貴族出身、しかしそれ以上に光るのはその才覚。ルカには気に入られていた。シードも、好感を持っている。
「そうだ、一応言っておくが───この男もこの訓練に参加するぞ」
意地悪そうに付け足されたその一言に、集められた訓練希望者の群れが僅かにどよめいた。
この男、と言ったのは勿論ウィルドの事であろう。彼は少し照れたような苦笑を浮かべたようだった。シードの位置からは遠くてよくわからなかったが。
「この男の札を取れたら褒美をやろうか!将軍と言えどもこの訓練では貴様らと同じ立場だ。遠慮など要らん」
その台詞は本気だろう。この三日間、山中でウィルド将軍を見つけ出し、打ち負かす事が出来たなら、白狼軍での出世も有り得るということだ。
ざわり、と、先程より少し大きいざわめきが起こった。
(簡単に言ってくれるぜ)
ウィルドの剣筋は国内外で評判が高い。戦場での彼は、ともすれば童顔の部類に入るその顔立ちとは裏腹に、鬼や死神のの如き働きぶりである。
シードが実際に彼の剣技を見るのは遠目だったが、三合と切り結ぶことが出来る相手はいないと言うのもあながち嘘ではないと思う。
だが、シードは沸き立っている。
遭ったら多分、挑んじまうだろうな。そう思って唇を吊り上げた。
「登山口は七つある。第一軍第一師団から第十二師団までは、レジスタ、貴様が責任を持って率いろ。第一軍第十三師団から───」
朗々とした声を聞き流しながら、シードは首にかけられた鎖を指先で弄くった。首周りに余裕無く巻きついたそれは、頭から抜く事も出来そうに無い。
焼き鏝で端を溶かされ輪になったその鎖が、この山中訓練の、かなめとなる道具なのである。
山中訓練。この山中訓練は───むしろ、山中サバイバルと言ったほうが良かった。
する事は単純である。三日間で、遭遇した者をなるべく多く倒す、これだけだ。
鎖に下げられた札は、その人数を確かめるものである。多くをねじ伏せ、多くを集める。
但し、自分の鎖が切れたならば、そこでゲームオーバーだと言う。それまでに何人打ち負かしていようとも、集めた札は全て無駄になるのだ。
それを、装備もなしに三日の間行う。多くの札を持ち残るのは腕利きだけというわけだ。
食料や飲料水は渡されなかった。山中、自分で調達しろという事なのだろう。それに耐えられず下山する者も多く出るに違いなかった。
形ばかり殺し合いは止められているが、この人数だ、思わぬ事故も有り得る。なにしろ、渡されているのは真剣なのだから。
夢への道を開くために、皆必死にもなるだろう。
囲まれた山中に解き放たれれば、周りにいるのは敵ばかりだ。
「では、行け」
ルカの号令と共に、集団が分かたれてゆるゆると進みだす。
シードは軽い興奮と動悸を感じながら、隊列に従った。大丈夫、体力には自信がある。
やってやる。そう思いながら、シードは目前の大自然をにらみつけた。
+++ +++ +++
……………その筈だったが。
思った以上に、辛い。
シードはしぶしぶとそれを認めた。
今まで、四人と遭遇した。幸い、ひやりとする事もあったがその全てに打ち勝った、だからシードはまだ山中にいる。
しかし疲労の度合いは激しい。まだ折り返し地点、これからが本番だというのに!
もう、腹の虫すら鳴らなかった。激しい喉の渇きも、目の下の隈も、ぼさぼさに乱れた赤毛も(それはいつもの事だったが)、今のシードの体力の限界を示している。
取り合えず、食べたい。飲みたい。寝たい。
しかしいつ誰と遭うかもわからない緊張感が、神経をヤスリの如く削っている。寝込みを襲われればひとたまりもない。
鎖が切れたら終わりということは、負けは許されないという事だ。
ひとつ稼いだからひとつ失っても構わない、そうだったらどれだけ楽か。
いつでも崖の淵という精神状態。この機会を逃せば、次は無いかもしれないという不安。
剣術試合ならば精神統一は図れる。
しかし厳しい山中、際限なく気を張っていなければならないというのは既に苦行だ。
(イヤ、条件は………皆、同じだし!やってやるさ!)
シードはぷるぷると首を振った。
取り合えず、今の状態で強敵と出会えば勝てる自信は無い。
「…………………」
ふと、苛立っていたシードの耳が微かな音を聞きつけた。
清涼さをかもし出す、川のせせらぎ。間違いない。
シードは聴覚や視覚などの身体能力にはかなり自信があった。皆から野生動物と褒められるほどである。
よっしゃ。
シードは一瞬だけ疲れを忘れ、足取りを速めた。
泥にまみれた靴を引きずり、忘我の境地で音源を目指す。
「……………………」
数分後、シードは目的地にたどり着いていた。
思ったとおり、水の流れはそこにある。
しかし。
「…………………誰だこんな事しやがったのは…………?」
見つけたら殴る。シードは誓った。
せせらぎは踏み荒らされ(どう考えてもわざと、である。自然にこんな事が起こるはずも無い)水は濁って飲めたものではない。
ささくれだった神経を逆なでするような嫌がらせ。
ひりついた渇きが喉にへばりついて、もう泥でも何でも良いから啜ろうかとも思ったが、流石にそれは腹を壊す。それくらいの判断力はまだかろうじて残っていた。
「………登るか」
流れに沿って上流に行けば、澄んだ水にたどり着けるだろう。
思う存分水が飲める。
シードはそう決めて、萎えた気力を奮い立たせた。
+++ +++ +++
さらさら、と心地よい水の流れが聞こえる。
男は、寛いでいた。
この山中七百五十余名(もう既に四、五分の一にはなっているだろうが)のうちで、一番心地よい時間を送っていたのは、この男かもしれない。
適度に爽やかな緑の香りに包まれて、男は目を閉じていた。
三日ほどの断食は全く問題が無い。水ならば下に流れている。
地面にいるのとは違い、木の枝の上ならば不意打ちを食らう危険性は随分と減るし、そもそも見つかる事も無いだろう。不快な湿り気もここまでは登ってこない。
太い木の枝の先はせせらぎの上まで張り出しており、少々身動きしたところで揺れもしない。組んだ腕を頭の後ろに回し、上体は幹に寄りかかっている。
むやみに移動する必要も無いので体力は削られないし、待っていれば相手の方からやってくる。
男は、無駄な労力を使うのが好きではなかった。
疲労困憊し、神経の疲れた相手の気配など、眠っていてもわかる。やっと発見したであろう清らかな流れに気を取られているのに、更には気配まで絶っている男の存在になど誰も気付かなかった。獲物が近づいたところを頭上から一撃。
それだけで事足りた。
男の懐には、既に二十二枚の札がある。
勿論、二十二人もかかった訳ではないが、二日目ともなると、既にそれなりに他の者を倒している人間とも出会う。
どうせ不必要なのだから奪っても文句はあるまい。
寝て、獲物が近づけば起きて、倒し、札を回収する。相手を引きずって何処か目に付かないところまで移動させるのが面倒だったが、それでも余りあるゆとり。
何も問題は無い。
男は目を開いた。
近づいてくる気配がある。
穏やかな呼吸音をそれよりも更に少しだけ小さくして、男は姿勢を整えた。
鞘に納まったままの剣を握り、生い茂った葉の隙間から、男は下界を見下ろす。
疲労が伺える重い足音。
赤い色が視界に入った。
(あれは………)
ええと。
男は僅かの間思案した。
(確か………名は、なんだったか)
記憶を検索する。
赤毛の頭は流れの淵に屈み込み、無防備な首筋を晒している。
男は取り合えず、行動を起こす事にした。心拍数も平静。
思い出すのは後でゆっくり出来る。
とん、と軽く木の枝を蹴る。跳ぶ、というよりは降りる動作だ。
梢は僅かに揺れただけだった。風のせいとも取れるくらいの微細な振動。
びゅんっ
空を切る、音。
「っ」
鞘は赤毛を掠め、抜ける。
足首と膝が着地の衝撃を吸収する。
(………外したか)
実は、あまりの疲労に相手が勝手にタイミングよく膝を崩しただけなのだが、男にはそんな事はわからない。
まあ、良い。
続く第二撃で仕留めれば良いだけのことだ。
男は手首を返してもう一度鞘を振った。
それを、赤毛がよろめき後退することでかわす。ざばり、と片足が水に突っ込んだ音。
「なっ……!」
赤毛は担いでいた剣を反射的に半ば抜き放とうとしている。
それをさせる前に打ち倒す自信はあった。
男は一歩前に踏み出しかける。
正面から向き合った、その赤茶色の瞳。
唐突に、名前を思い出した。
「あ、アンタ………!?」
口をぱかりと開けて間抜け面で此方を見てくる。人差し指まで向けてくる。
襲われている最中だというのに最早隙だらけ。
阿呆だ。
「………………」
追撃する気も失せて、男は鞘を降ろした。
そう、名を思い出したのだ。
───確か、シードと言ったか。