山中訓練。







『山中訓練』




「あー」

無意味に唇から漏れる母音。

「どうすっかな」

シードは乱暴にがしがしと自分の赤毛を掻いた。よくやる癖である。
肩を脱力させて、ごきりごきりと首を鳴らす。

「ううん」

そういうとシードはもう一度視線を上げた。
シードの住まう第九兵舎の中央掲示板にでかでかと掲示してあるそれは、山中訓練の告知だ。
むろん山中訓練などそれ程珍しい行事ではない。地獄の冬季雪中訓練に比べれば、何ほどのことでもなかった。

通常ならば。

同室の友人が騒ぐので、いつものことだと視界の端にしか入れていなかった張り紙を、シードはわざわざ見に来たのだ。
上から下まで隅々目を通して、その後思わず口から出たのが先程の母音。

「ま、これしかチャンスはねぇしな」

シードはそう言ってさっさと割り切った。
今年の山中訓練は通常とは違う。普通は師団ごと、小規模なら部隊ごとに行う山中訓練なのだが、今回動員するのは全軍団での希望者である。下士官、兵卒なら軍団の区別なく参加でき、特殊な訓練を行うと書いてあった。
その発案と監督は、つい数ヶ月前に成人の儀を終え、その気性のままに軍部を掌握しようとしているという噂のルカ王子である。
そして彼は、随分な実力主義者だと聞く。

単純に考えて、身分を越えて使える人材の発掘をしようとしているのだと思う。
それぐらいはシードにもわかるのだ、だがこの注意書きからは、注意せずとも汲み取れる意思がひとつある。

命の保障はしない。そういうことだ。
あのルカ王子が、わざわざ自分で監督しようというのだ。ひょっとしたら旨い事いくかも、などという軽い気持ちで参加する平凡な者ならばすでに末路は見えている。一生一兵卒、それくらいの処分で済めば良い方だろう。
この機会を何としてでも逃さず王子の目に留まりたい、そして無様なところなど一瞬たりとて見せないという確固たる自信が有るものだけが、この訓練に参加するに違いない。

同室のものは、いや、参加資格のあるものの八割か九割以上は、この訓練には不参加だろう。
ルカの恐ろしさは兵の意識のうちに既に十分に浸透している。勿論そのカリスマ性と共にだが。

シードも当然そのことは理解していた。
しかしシードにとっては、これ以外に方法はないのだから、是非もない。

(自信がねぇってワケでもねぇし)

シードの辞書に謙遜の文字はない。
勿論自分より強い相手には運がなければ勝てないし、弱い相手にも運がなければ負ける。過信はしない。
だが、シードは自身を正当に評価することができた。

正面から剣を触れ合わせれば、相手の手首ごと砕く。
荒れ狂う炎のような、苛烈な己が刃の熾烈さを。





+++ +++ +++





「ウィルド様っ!?」

金の髪と緑の瞳を持つ三十代前半のその男は、後ろから投げつけられた自分の副官の悲鳴に近い呼びかけに、その足を止めた。
薄く苦笑いを浮かべながら振り返る。

(もうばれたか)

ウィルドの副官は、ルルノイエ宮の白皙の廊下を、半ばまろびつつ必死の形相で進んでいた。
それを遠くから手で宥めながら、ウィルドは言い訳を探す。

「ウィルド様っ!!」
「大声を出すな。まだ耄碌はしておらぬ」

なるべく相手を興奮させないように、ウィルドは穏やかな声音を使った。
副官は自分の醜態に気付いたのか声のトーンを落とし、それでもウィルドに冷たい視線を向ける。

「………私に内緒でこのような所業、耄碌しなさったとしか思えませんね」
「別に将軍として世に恥じるようなことはせぬが?」

ウィルドは胸を張って副官を見下ろす。
長身のウィルドの前に立つ副官も、精一杯背伸びをして上司に立ち向かった。

「これがわざわざ規定を曲げていただいてまで、貴方がするべきことですかっ」
「してはならぬという法はなかろう」
「酔狂に過ぎると申し上げているんです!しかも仕事を放り出してまで!貴方だってご自分の隊の訓練がございますでしょう」
「それを言われると辛いが………」

ウィルドは痛い所を突かれ、副官からやや視線を逸らした。

「少しくらい良いではないか」
「ちっとも良くありません」

三歳児を叱り付ける様な副官の言葉にウィルドは肩を落とし、困ったような表情を作った。
それを三歳児がしたのなら副官の態度も軟化したかもしれないが、ウィルドは既に三十を過ぎていたので当然効果はない。

「………………………」
「………………………」

沈黙の攻防を十数秒間続けた後、ウィルドは取って置きの切り札を晒した。

「………もうルカ様に許可も頂いたことであるし」

副官は巨大な溜め息をついた。
腰に手を当て仁王立ちになり、険しい顔で緑色の目を覗き込む。

「勿論存じておりますよ」

精一杯顎を持ち上げ、下から突き上げる様にして副官は言い放った。

「貴方様が、私に内緒で、皇子主催の山中訓練に、必要もないのに楽しそうだからという理由で、参加申し込みをし、規定に外れているのにもかかわらず皇子が許可し、うまく仕事から逃れたと今浮かれているということくらいはね!」
「…………四番目と最後はお前の勝手な想像では?」
「違うのですか」
「…………………………いや、違わぬが」

明後日の方向を見ながら、しぶしぶとウィルドが頷く。
勿論副官も、もうこのことは決定事項でありどうあっても変更は不可能と知っている。だが、それでも言いたいことがあった。

「わかっておられるのですか?いくら貴方が将軍でも、相手はあのルカ様ですよ!?雑兵に混じり容赦なく同じ訓練をさせられるに違いありません」
「それぞ望むところだ。特別扱いなど受けたくもない」

ウィルドは顎を擦りながらそう言った。
副官はこれ以上しかめ様がないように見えた眉を、見事に更に歪ませて見せる。

「物事を弁えてください!」

ウィルド将軍は大貴族の次男だが、それだけの男ではない。
戦場では戦士の憧れの的となる華麗で力強い剣技を披露し、誰よりも早く先頭を切って馬を駆る実力者だ。
何故それが今更、山中訓練などと。

「貴方は仮にも栄えある皇国軍第四軍の将!怪我などしたらいかがなさるおつもりか」
「治す」
「そのようなことを申し上げているのではありません!!」

副官のこめかみに青筋が浮く。このままでは脳卒中で入院してしまうかもしれない。
それを防ぐため、ウィルドは何とか言い訳しようと理由をひねり出した。

「聞け。部下だけでなく、私にも鍛錬が必要なのだ。近頃大きな戦もなく、腕が鈍っているからな」
「………将に必要なのは武力だけではありませんよ。決裁待ちの書類が二束ほど、随分前から貴方をお待ちしておりますが?恋い慕うレディの扱いを粗末にするのは騎士道に反するのでは」
「生憎私はマチルダ出身ではなくてな。無骨で詰まらん男だ、退屈させてしまうに違いない」

ウィルドはわざとらしい動作で、ぽん、と手を打った。

「そうだ、代わりにお前が相手をして差し上げてくれ。私の印を預けるから」
「そんないい加減な………」

もう話は終わったとばかりにウィルドは副官に背を向けた。
逃げるように去ろうとする上司の背を、副官は再び追いかける。ストライドが違うので小走りになりながら。

「お待ちください!まだ申し上げたいことが沢山」
「却下だ。これから会議がある」
「貴方はこんなときばかり真面目なふりを───!」



ウィルド・フォエルード。三十二歳。
皇国暦二百十九年当時、第四軍副将軍。通称兼俗称、<左鳴りのウィルド>。





+++ +++ +++





きうっ

動物の鳴き声のような、微かな音。
けれどそれがそんなに可愛らしいものではないことを、シードは知っている。

月の光を反射して光る剣。
相手の手にもある、凶悪なそれ同士が軋み合いながら触れ合う音だ。

「……………」

影が絡みつく暗い視界。
シードの瞳孔が猫のように軽く細まる。

極限の緊張の中、相手がぱきりと細い木の枝を踏み砕いて跳躍する気配。
シードは円を描くようにして横滑りにその場から離れる。

「っ!!」

しゅっ

不意に横合いから突き出された剣先に驚愕。
無理な体勢だが体を捻る。右上腕部を掠めて、冷たい鋼が去っていった。

同時、お返しのように繰り出されたシードの剣先が、相手の何処かを削った感触。

勘だけを頼りに踏み込み、軽いステップで相手の背後を取るように動く。
しかし読まれたのか、またしても跳躍の気配。距離をとられた。影の中の影を捉えるように、目を薄く細める。

短く寸断される思考。

月の光の下ではシードの髪は暗く陰り、濁った血の色になる。
上空に無遠慮に投げ出された木の梢や葉の重なりが、まだらにその明かりを遮っており、時折見える相手の姿さえ歪んでいた。

深く身を沈め、繰り出された一撃をかわす。
その反動で伸び上がるようにして放った刺突はぎりぎりで回避され、かわりにその背後の木の幹に食い込んだ。

どっ

(しまった)

抜けない。

致命的なその隙を逃さず、相手の剣が容赦なく振り下ろされる。
シードは得物に拘泥せず、手を離して飛び退った。
二閃三閃、畳み掛けるような追撃を、地に身を投げ出すことで回避する。転がる最中、苦い土の味を舌に感じた。

丸腰。圧倒的不利。

相手は今までの様子を伺うような姿勢を止めて、大胆に踏み込んできた。
シードはすべをなくしてただ後ろに下がるのみ。ちらりと相手の顔が照らされ、軽く口の端をあげているのが確認できた。

(ちくしょ)

泥交じりの唾を吐き捨てる。
次に空気を振るわせたのは、予想通りの言葉だった。

「降参しろ」
「ヤダね」

即答。

それだけでシードの気質を感じ取ったのか、相手はそれ以上言葉を浪費しなかった。
殺気の風がシードの頬を撫でる。

「…………………」

一瞬後。

裂帛の掛け声と共に、最高に気勢の乗った一撃が、シードの赤毛目指して放たれた。

しゅんっ

(ここだ!)

シードは息を呑んで、体を裁き半身になりながらすれ違うようにして膝を振り上げた。
太ももの上を擦って剣が過ぎる、掻い潜りカウンターのようにして皮鎧の上から衝撃を与える。

そのまま勢いを殺さず、後方へよろめく相手の体に密着しながらその手首を握る。
そして巻き込むように思い切り振り回す!!

うぉるるああああああああああああああああっ!!

ぶぅおうっ!!

常人にあるまじき怪力を発揮するシードの腕は、人間一人とその装備分の重量を軽々と振り回した。
百二十度程の回転の後、まるで鐘突きの様に相手の顔が太い木の幹に叩き付けられる。

鈍い衝突音が空気を震わせた。

「…………………」

そして静寂。

深い溜め息をついて、シードは力の抜けてだらりとした相手の手首を放した。そこに握られていた剣が地に落ちる。
遠心力を利用したとはいえ水平に浮く程の勢いで回転させられ、そのまま顔面から木にぶつけられた不幸な男は、問答無用で気絶していた。

シードは額に滲んだ油汗を拭い、木の幹に突き刺さったままの自分の剣を回収した。
服の裾で軽く汚れを拭って鞘に収める。腕や足に刻まれた傷から、思い出したように痛みが這い登って来た。

「……………………おし」

シードは男の意識がないことを念入りに確認すると、その脇にしゃがみこんだ。
その首に付けられた細い鎖を確認し、服の中から引きずり出す。鎖の先には簡素な木の札が付いていた。

それを引きちぎるようにして奪うと、シードは首を鳴らしながら立ち上がった。ついでに大きく腕を振り上げ伸びをする。
重労働をこなした肩を馴染ませるように回し、

「………ようやく、ひとつだ」

札を乱暴に懐に押し込むと、シードは急ぎその場を離れた。
まだ日が昇るのは先だ。充分な休息を取る必要がある。

先程のように不用意に敵に遭遇しないよう、細心の注意を払って足を進める。
視界の利かない戦闘は、神経を鑢で削るように磨滅させてしまう。
渇きを覚えた喉を押さえ、シードは喉の奥で呟いた。

「先は長えな」

懐の木の札を、服の上からなぞって確かめる。
シードの首にも、同じ木の札が下げられているのだ。