例えば、こんな思い出。
『例えば、こんな思い出』
「うっわー」
シードはぐるりと首をめぐらせて、その部屋の内部を眺め渡した。
まずは磨き抜かれた床に、指ほどの厚さの絨毯が敷きこまれている。シンプルなデザインだが良く見れば高級な素材が使われていた。
作り付けの書棚は今はがらんとしているが、使われている木材はその光沢を見ただけで上等なものだとわかる。
テラス付の広い窓。翻る二重のカーテン。
日の差し込む窓際に、古い胡桃の木でできた大き目のデスクと座り心地のよさそうな椅子。
「うっわー」
視線を転じれば、昼寝をすればさぞかし気持ちよかろうと思えるカウチ。天鸞織張りのクッション。
丸テーブルの上には硝子の灰皿。寝室へと続いているのであろう扉。何処へ続いているのかわからない扉。細工の施されたクローゼット。
部屋の隅には観葉植物が置かれていた。
芸術的なバランスのコート掛けにおっかなびっくり触れ、シードは一歩踏み出した。
柔らかな感触が足の裏を優しく受け止める。
「うわ」
今度は驚きの混じった台詞が漏れ、シードは怯えたように踏み出した足を再び持ち上げた。
辺りをきょろきょろと見回し、深い溜め息を吐く。
「………おっしゃ」
数分後。意を決してずかずかと部屋の中心まで入り込む。
「うわお」
掛け声を活用しながら、シードはその場でゆっくりと一回転してみた。
先程の位置からは見えなかったが、もう一枚扉がある。どんな部屋に続いているかはやはりわからない。
大体が、寝室が別についている時点で既におかしい。
腕をぶんぶんと振り回しても壁にぶつからない。
飛び跳ねても天井に手が届かない。
「うえー」
馬鹿みたいに見えることは承知していたが、シードは諦めきれずに二、三度同じ場所でジャンプを繰り返した。
クールな同僚がここにいたら、踏み台と棒と吊るしたバナナを用意してくれたかもしれない。
「わあ」
その弾みに上を見上げて、小規模なシャンデリアらしきものを発見したとき、シードは開いた口を閉めることを諦めた。
手持ち無沙汰だったので頭付の虎の毛皮の敷物を探してみる。まあ、結局それは発見できなかったのだが。
部屋のドアを開けてから、十七分と二十五秒後。
シードはすうはあと深呼吸した。
重大な問題を、ようやく口にする覚悟が出来たらしい。
「………これが俺の部屋なワケ?」
否定してくれる人間は当然だが誰もいない。
一軍を率いる将として出世したシード、第一の試練がこれだった。
+++ +++ +++
だかだかと、階段を三段飛ばしで駆け上がる。
目指すは只ひとつ、同じ日にやはり個室を与えられた同僚の部屋。
「クルガーン!!」
がんがん、ばぁん!
申し訳程度に力任せのノックを二回、その後一瞬も置かず体当たりのようにしてドアを開く。
「………………ってオイ」
鼻をくすぐったのは紅茶の香りだった。
次の瞬間目に入ったもの。
初春の暖かい日差しがカーテンを揺らし、床に光の模様を描いている。そしてシードの部屋にあったのと同じようなカウチにゆったりと腰掛けながら、古びた書物を膝に乗せ、紙のような薄さの白磁のティーカップに口をつけている銀髪の青年。
無表情だが、非常にくつろいでいることが良くわかる。長い足を組んで、肘掛にもたれるその姿に、シードは『優雅』というタイトルをつけた。
その光景を、シードは十数秒間じっくりと眺める。
それから半眼で問った。
「アンタなんでもう既に百年前からこんな暮らしってカンジなワケよ」
「性格の違いだ」
ぱらり、と書物の頁を繰り、視線もくれないまま答えるクルガン。
「…………身も蓋もないお言葉をドーモアリガトウー」
勢いで二、三歩走りこんだ部屋の中をぐるりと見渡す。
大体シードの部屋と似たつくりだった。作り付けの本棚は既にもう半ば以上埋まっている。
まあ、流石に少将と少佐という違いがあるので、この部屋も同じように見えても金のかけ具合はまた一桁違うのだろう。だがとりあえず、十までしか数えられない人間にとっては千万と一億の差などわからない。
「何の用だ」
「クールーガーンー………」
「そのイントネーションで呼ぶな」
シードはがりがりと自分の赤毛を掻き回した。
「助けてくれ」
「嫌だ忙しい」
間髪入れずに返ってきた、およそ嘘だと指摘するのも馬鹿馬鹿しい答えに、血圧が少し上がる。
だがそんなことを気にしていては問題解決は望めまい。シードは大人になろうと思った。
「部屋が落ち着かねぇんだよ………ストレス溜まる」
「ここに来て何の問題解決になる。俺にはヒーリング機能などないぞ」
「アンタに和みを期待してねぇよ!」
だんだんと足を踏み鳴らし、シードは恨みがましい視線をクルガンに向けた。
「………せめてこの居心地悪さを唯一同じ立場のアンタと共感しようと思って来てやったのに」
「尚更無駄足だったな。ああご苦労様」
「癒されねぇよ!」
シードは一声叫ぶと、苛立ちと共に昨日からの不満をぶちまけ始めた。
「部屋にカーテン付いてんだぞ!?しかも二枚!薄いレースと厚手の生地の」
「何の問題がある」
「いちいち触るのに手ぇ洗わなくちゃとか気遣うんだよ!絨毯だってそうだ、泥がつくのを気にしちまう敷物とかなんか間違ってるだろ」
「どちらかといえば間違っているのはその歳で靴を泥まみれにするお前だ」
「しかもなんか部屋に自分の持ち物置いてもちっともそぐわない!」
「纏めて仕舞え」
「メイドってなんなんだ何でいちいち洗濯物とか俺から取り上げるんだよ洗濯板の感触忘れちまったらどうしてくれるんだあの微妙な力加減が」
「きっぱり忘れろ」
「大体『シード様』ってどうよ『シード様』って!?ナニソレ!?誰!!?」
「赤毛の猿」
「そう!!………って違ぇだろ!」
シードは広い絨毯に大の字に体を投げ出し、ばたばたと暴れ始めた。
数十秒は完璧に無視していたクルガンだが、カップの中の紅茶が揺れだしたのに気付いて眉を顰める。
はあ、と溜め息をついて、クルガンはシードに声をかけてやった。
「…………結局、何が言いたいんだお前は」
「アンタだけ順応してるなんてずりい」
ぴたり、と動きを止めて、シードが見上げてくる。まるで幼児のような言い草で。
クルガンは床に伸びているシードの頭に、しょんぼりと垂れた茶色い三角耳を幻視した。
「……………」
眩暈をこらえるようにこめかみに手を当てる。
仕方なく、クルガンは解決策をひとつ提示してやった。
「寝てろ」
「寝てても落ち着かねぇんだって………」
憔悴した様子でシードはがくりと肩を落とした。
「頭が枕に埋まるんだよスプリング柔らかくて背骨が曲がるんだよ寝返りうってもベッドから落ちねぇんだよ………!!」
恐怖の羽根布団。
ぴんと糊の利いたシーツ。
シードはいやいやをするように首を振った。
「意外と繊細だな。普通と方向が逆だが」
「畜生、いいよなアンタは神経鋼鉄で」
クルガンはその台詞は黙殺した。
「食事はどうしてる」
「それなんだよ」
シードはわが意を得たりとばかりに勢い込み、腹筋で上半身を起こした。
「昨日はこっそり元の兵舎に忍び込んでそこでメシ食った」
「面倒なことを」
「お上品な食事の方がよっぽど面倒だろっての!………きっと朝食の卵はフライドかボイルドかポーチドかオムレツかスクランブルか」
シードは念仏のようにぶつぶつと唱えた。
顔をしかめながら指折り数える。
「添えるのはベーコンかハムかソーセージかまで選ばなきゃならねぇんだ」
「心配あるまい、お前なら悩む必要はない」
うっすらと、その口元が僅かな笑みを湛えたような気がして、シードは目を擦った。クルガンはそんな同僚を眺め、さっさと問題を解決してやる。
「ベーコンとハムとソーセージを食え」
「………遠慮なく?」
「遠慮なく」
ぱたんと本が閉じられた。
「信じられないし信じたくもないがお前は既に一応仮にも名義上は将軍だ、山に返されることは流石にあるまいよ」
「何故だろう、ちっとも褒められている気がしねぇ」
「気にするな。そういうことだ」
クルガンはカウチから立ち上がり、白地に赤いラインが入った真新しいサーコートを着た同僚を、やっときちんと見つめた。
それから部屋に風を入れるため、歩いていって窓を開け放つ。
ふわりと、銀の髪が揺れた。
「慣れろ」
「………無理だー」
「別にすぐにとは言わない」
まだまだ、問題は山積みなのだから。クルガンはそう続けた。
将軍に祭り上げられたばかりで、右も左も手探りの状態だ。慣れないことなど、それこそ山のようにあるだろう。
平民からここまで出世したから、目的が果たせたわけではない。
やることは、これからで。
「先は長いからな」
何の気はなく落とされただろう少将のその一言に、少佐は瞬きをひとつした。
「…………長いか」
「長いさ」
ふと意識せずに、シードの口角が上がった。
にやり、とお世辞にも上品ではない笑みがこぼれる。
それは多分、『やられた』という感覚。
きっと。
いつも空は高くて。
この愛しい景色の中を。
ずっと遠くまで。
風が、部屋に滑り込んでくる。
全身のばねを使って、シードは跳ね起きた。
「………よろしくねハニーv」
「口の利き方を躾けてやるからそこを動くなよダーリン」
「って天雷はヤメロよマジで!!死ぬから!」
……………きっと、ずっと遠くまで。