石造りの祭壇に、華美な装飾はない。
手のひらで触れても、温度もない。

刻まれた名のひとつひとつを、クルガンは知らない。
記憶に残る者の痕跡もあるのだろうが、無数の記録の中に紛れ、埋もれている。

英霊の道。
戦死者の──墓だ。

身に馴染んだ夜の空気と静寂の中、クルガンは自室を出てここへ来た。
とても眠れる気分ではない。

既に、同盟軍は皇宮から見える距離まで迫っている。
明朝、最後の戦いの火蓋が切って落とされるだろう。そして勿論、クルガン自身も兵を率い、出陣する。

どれ程の人間が、今この城に残っているだろうかとクルガンは考えた。
どれ程の人間が、今この闇を抜け──家族の、恋人の、友人のもとへと走っているだろう。

無理もない、と考える。既に、誰の目にも勝敗は明らかだった。
守るべき領土は奪われ、ただこの城を残すのみ。

ならば、何の為に戦うのだろう。クルガンは自問した。

傷付いた身を横たえ、いまだこの旗の下に集う者が、明日には白日の下に屍を晒す。
この上この墓に殉じる命を増やす必要が、何処にあるのだろう。

そう問いかけても、返る言葉はない。

ただ、わかっていることがあった。
己以外の誰が、何を考え、ここに留まるのかは知らないが──少なくとも自身に関しては、言える事が。

祭壇に当てた手はそのままに、クルガンは呟いた。
夜と、闇と、静寂と、冷気と、墓の中に反響する音。

「俺は、生き延びる為に生きて来たわけじゃない」

乾いた舌が喉に張り付いて、呼吸と発声を阻害する。
苦い味の唾液は粘性を帯び、唇を軽く固定していた。
けれど、クルガンは呻いた。
心の奥から汲み出される、慟哭だった。

生まれてから、死ぬまで。
この自分は何を成すのか。
生まれてから、死ぬまで。
この自分は何を奪うのか。

「何人も殺した」
「何人も傷つけた」
「何の為だ」

初めて戦場に出たときの事。覚えている。
人を斬る手ごたえ。手のひらに染み付いて離れない。
親しい者を理不尽に奪われた人間の、怨嗟の叫び。恨みの染み付くこの肉。

自分を愛した事など無い。

「俺は」

何の為に。

「生き延びる為に、生きて来たわけじゃない……!」

どんな大義名分も、役に立ちはしない事はわかっている。
こんなにも我が侭な願いなど、誰も聞き入れはしない。

さあ認めろ、と声がする。

終わる。
終わる。
もう……なんの手立てもなく、情け容赦なく。

終わるのだ。

「…………嫌だ」

嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ。
どれほど己を誤魔化してみても、やはり繕えない。
物心付いたときから身に着けていた筈の無表情という仮面を、自分は一体何処へやってしまったのだろう?
不意に、熱いものが、頬を伝うのがわかって、それが。

どうしようもなく、自身を傷つけた。

「負けたくない……消したくないっ!!」

なんてみっともない様だ、誰か笑ってくれるといい。
変えられない決定事項を、認められずに泣き喚く子供を。
誰か、嘲ってくれるといい。これ程に……惨めな!

「この国を……」

愛している。

一体誰の声だろう、震えて乱れきったこの音は。
最後まで冷静に、自分を見失わずに。そうでいる筈だった。
こんな無様な嘆きなど、鼻で笑って見下す筈だった。

完璧に、演じきる。
そんな男を、この二十年間で作り上げたと、思ったのに。






誇り高さなど、望んではいないのだ。

はっきり言って、綺麗な死に様など期待出来るはずもない。
信念に殉ずる美しさ?現実の光景の悲惨さの前では霞んでしまう。

そもそも、クルガンは信念と言う言葉を使うべきではないのだ。幼児の我が侭、それも飛び切り迷惑な、他人を害する我が侭。

そして腕は千切れ腹は裂け、細切れの腐った肉片になる。血が飛び散り膚が焼け焦げ、それはそれはそれはそれは、凄絶な。
醜く、汚らしく死んでいく。

……そうされなければ、戦いを止めないだろう。

そんなことは何故か既にもう、知っていた。

足を挟まれた子どもを、炎の中において逃げる母親がいるか。
崖の縁で掴んだ最愛の人の手を、離せる人間が何処に。


共に滅びるだけだとわかっていても。


何かを愛するということは──
その対象について、愚かになるということだ。



わかっている。
皆が知っている男は、絶対にこんな道を選ばない。
百を取るために十を捨てるのでなく、一を取るために百を捨てるような道は。
そんな、何の役にも立たない、それどころか論理的にもおかしい道は。
銀狼と、知略の将と呼ばれる男だったら、一言で、気違い沙汰だと切り捨てる。そう、絶対に。
それが正しい(・・・・・・)

だって意味がない。
これは無駄どころか、有害だ。
クルガンは、こんな人間は真っ先に消すだろう。愚かで独りよがりな行為を冷たい目で否定し、迷いの無い動作で息の根を止める。
醜い。浅ましい。これまで何度となく思ってきたことを、その百倍の強さで自分の心に突き刺している。
この願いの正当性なんか、どんな理屈をこね回したところでもう何処にも無い。

誰に言われなくとも、己が一番わかっている。
わかっている。
わかっているんだ。




だが、それがどうした。
俺は泣くほど嫌だ。















腰に佩いた剣の重みは、ない方が今では落ち着かない。

回廊に、光を切り取ったように四角く落ちかかっている日差しの連続。その中を、シードは真っ直ぐ歩いた。
しんとした静けさを、床と具足が衝突する音、鎧と鞘がぶつかる音で破っていく。

幾度も通った道だ。

その先に黒衣の影を認めて、シードは僅かに驚いた。
まさか、この男にそんな可愛げは期待していなかったのだが。

「よう、どうしたよ?待ち伏せなんかしやがって」

シードは肩をそびやかして彼に話しかけた。
返事が貰えるのは五秒は後だろう。彼はシードと違い、離れた距離から大声で会話するなどという行儀の悪い事はしない。

シードは更に十数歩進んでから立ち止まった。相手の姿を観察する。

いつも通りに隙無く整った格好だ。このまま式典に出席する事も可能だろう。
先程散々な負け戦を経験したようには、とても見えない。

クルガンは無言のままで、シードを見もしない。回廊に少しの沈黙が落ちる。
シードは少しだけ眉を顰めて、年上の男を意地悪くからかった。

「……まさかアンタ、俺を引きとめようとか思ってる訳じゃねぇよな?」
「引きとめる?」

ただの軽口のつもりだったシードは、その次には容赦のない否定の言葉を期待していた。
しかし、クルガンは小さく頷いた。そして、いつもよりも僅かに歯切れの悪い口調で、呟く──有り得ない裏切りだ、とシードは思った。

「そう、言えなくもない」

胃の奥が、凍りついたように引き絞られる。
けれどシードは、そんな痛みはおくびにも出さず、片頬だけを吊り上げて笑った。今、シードはそんなおふざけの相手が出来る気分ではないのだ。
勝手に動こうとする拳をぎゅうと握り締め、震えを彼に気付かれないようにする。

「冗談だろ、クルガン。そんな役割、全然似合わねぇよ」
「────」
「俺の女に泣かれりゃ、進む足も止まるかも知れねぇけどさ。アンタじゃなあ」
「確かにな」

クルガンはあっさりと認めた。

「今更、こんな事を言うのは無益だろうと思う。お前程諦めの悪い男を俺は知らないのでな」
「……褒め言葉だと受け取っとくぜ」
「──だが言わせて貰う」

クルガンは、伏せていた眼を上げた。

「諦めろ」

シードは静かに訊いた。

「何を?」
「お前を」

クルガンは傲然と命令した。

「お前の命を諦めろ」

灰色の双眸で真っ直ぐシードを見詰め、要求する。
間違っても懇願ではない。依頼でもない。ただ、それが当然であるかのように、クルガンは言った。

「あるだけ俺に寄越せ。俺と来い。他の所へ行くな。女の涙などで迷ったら消炭にしてやる」

最後の言葉だけ、囁くように。


「……俺を選べ」


シードは乾いた喉から声を絞り出した。

「……狡ィよ、アンタ」
「自分が卑怯者だと言う事は、知っているが」

クルガンは静かにシードに背を向け、歩き出した。
断られるとは微塵も思っていないだろう、不遜な背中だった。
人を崖から突き落としたと思ったら、襟首を掴んで引き上げる。なんて心臓に悪い男。

「それでもいいといったのは、おまえだろう」

シードは笑った。確かにそうだ。
笑いながら、シードは殆ど泣きそうだった。
叶うなら、塔の上に立って大声で叫びたい気がした。その一瞬後には、やっぱり墓の中まで持っていきたい秘密に思えた。


この男が、初めて、俺に望んだ。
俺が欲しいと、言ったんだ。


勿論シードの答えは決まっていた。
はっきりと区切って、先を行く背中に向かって音を叩きつける。

「嫌だ」

クルガンは振り返らない。シードはそのまま続けた。

「何様だよアンタ、いくらなんでもちょっと図々し過ぎるんじゃねぇの。そんな言葉一つで、この俺が攫えるか」
「────」
「……全く、何年待ったと思ってる?」

シードは多分クルガンに、いろいろなものを与えた。
無償の愛など、シードの柄ではない。だからそれはやっぱり、それなりの見返りを期待しての事なのだ。きっと。

にやりと笑って、シードは不敵に要求した。

「アンタを俺によこ」
「死んでも御免だな」

迷いと容赦のないその切り返し方はシードの予想通りだったが、それにしても、こんな時まで情緒すらないのはどうかと思う。
シードは溜息を吐いた。

「……だから、最後まで言わせろって」

全く、酷過ぎる。いつものようにそう思いながら、シードも回廊を再び進み始めた。
いつも通りの歩き方で。















「おっと」

曲がり角で鉢合わせた男は、大人しく両手を挙げた。
突きつけられた剣から距離を取るように慌てて二、三歩下がって、たたらを踏む。

「うわ、ちょ、ちょっと待ってくれ」

多分長身の部類だが鍛えられた雰囲気はなく、隙を窺うような気配もない。武装もしていない。
同盟兵達は油断なく構えながら、ひとつ提案した。

「抵抗するな。投降すれば、無為に命は奪わない」
「命か」

ふう、と肩を落として、男は朽ちた麦藁色の髪を揺らした。
両手はあげたまま、しみじみと呟く。

「今ここに残っている奴らは、そんなものより自分の意地を張り通す」
「!」
「いやいや、結論を早まるな」

男は慌てた様子で首を振った。

「俺は違う。元々は武官じゃないから、華々しく戦って散るだとかいう見栄とは無縁でね」

飄々とそんな事を言って、両手を更に高く掲げる様子に、嘘は見えない。
四方から凝視されている男は焦りながら早口で続けた。

「だから、城を捨ててさっさと逃げようと提案したし、そしたら上司にぶん殴られて首になった。仕方なく一人で逃げる所で──つまり、投降したい」
「……良いだろう」

剣が引かれると、男は緊張を解いた。
その様を見ながら、投降者をどう利用すべきかと隊長は考えていた。何せ、このルルノイエに立ち入ってからというもの、恭順の意を示した者は初めてだったからである。

「……他の奴らは、戦闘を止める気はないのか?あんたが説得を手伝ってくれれば、」
「構わないが、まず無理だと思う」

男はあっさりとそう断定した。

「逃げようと思えば昨夜の内にいくらでも逃げられた」
「投降を提案したんだろう。そういう意見の者もまだいるという事じゃないか」
「それは単に俺が言いたかっただけだ。上司が絶対頷かないのはわかってた。でも何と言うか、形式だけでもと思って……まあ、端的に言って自己満足だよ」

男は小さく微笑んだ。

「だって、あんまり潔いのも、寂しいだろう?」

隊長は沈黙し、そして僅かに考えてから言った。

「すぐに、その上司の所まで連れて行ってくれ」
「え?」
「多分、お前のように投降したい者はまだ沢山いる。その筈だ……急いで上部の息の根を止めねば」

言葉が理解出来ていないのか、男は目をぱちぱちと瞬かせた。
その愚鈍な様子に、隊長は僅かに苛立ちながら言い募った。

「全く、軍人とは──軍隊とは度し難い。軍規と習慣と恐怖に縛られ、自由がない……ここに来るまで出会った奴らの中には、少年兵まで混じっていた!逃げたくないんじゃない、逃げられないんだろう?……いつだって、割を食うのは権力を持たない人間だ。そういう奴らを殺したくない」
「……」
「若造が、引き際が見えなくなっているだけだ。散々好き勝手に戦をしておいて、惨めに降伏するのが嫌だと、そんな奴等の見栄の為に兵が死ぬ事はない!」
「……確かにな」
「元凶を断つ──愚か者の下らんプライドの為に、犠牲を増やしてなるものか!急ぐぞ!」

言いながら、どんどんと気持ちが高ぶってきたのだろう、隊長は大きな声で吼えた。それに、おお、と、同盟兵が答えた。
行くぞと声をかけ、隊長が男に向かって顎をしゃくる。彼を先に立たせて、廊下の先を案内させるのだ。

しかし男は首を振った。

「確かに、そう見えても仕方ないよな」
「?」
「でも──誰も、そんな命令はしなかった」

苦笑いの表情を保ったまま、男は軽い溜息を吐いた。
困ったような、呆れたような、どうしようもなさそうな、そんな溜息。

「いっそ、そう言ってくれれば、俺だって楽だったのに。……でも仕方ないよな、そういう人達だから……」
「おい、どうした?」
「お前らは悪い奴らじゃないんだろうな。だけど、どうにも我慢が出来ない言いぐさだ」



「……お前らに、何がわかるんだ?」



男は一歩横に動くと、先に進もうとしていた同盟兵の腹に軽く手を当てた。糸くずでもついていたのを取り払う為だろうかと、誰かはそう思った。
しかし、そうではなかった。

「命令されたら残れると、そう思うのか。兵が何万もいたこの城が、こんなに寂しくなっているのを見ても?」
「何を言ってる?」
「それでもここに残るのは……どんな思いか、わかるのか」

男が踏み出したつま先が床に沈む。同時、砂袋を叩くような音と共に、触れていた手のひらが僅かに肉にめり込んだ。
声にならない悲鳴を上げて、同盟兵が崩れる。

「!?」
「なっ、お、お前!」
「何をした!」

呆然としていた時間は数瞬で、兵たちはすぐに半円に展開して男を取り囲んだ。
男は、悶絶した同盟兵が落とした剣を拾い上げる。

「全く……俺は剣なんてそんなに得意じゃないんだ。体力だってない」

二、三度腕を振り、刃の重みを確かめているようだ。けれど、鬼気迫る雰囲気は全くない。
その為、今目の前で味方が一人倒されたと言うのに、何故か隊長は判断に迷った。

「……まあ、だから、俺を倒すのは難しくないんだよな」

口惜しいな、と、ぶつぶつと愚痴りながら、男が剣を構える。
空気に溶けたように、その表情が消えた。

「だが、俺の前で俺の好きな奴らを侮辱したんだから、それなりの覚悟はしてもらう。嫌か?」

















扉の前に、一人の男が立っている。
軍主の一行は一瞬警戒したが、男は鎧も纏っておらず、剣すら帯びていなかった。そしてその表情に、敵意も怯えも見当たらない。どうにも状況に似合わない風情だ。

ルルノイエ宮に勤めていた者であるのは確かだろうが、何が目的だろう?
問答無用で刃を合わせる事は避けたい。決死の覚悟で向かって来る者は仕方なく相手をするが、出来るなら殺したくはない。

皆がそう考えているうちに、男が口を開いた。

「この先で、将だとか誉めそやされていた、だがその資格もない奴らが待ち受けている」

黒い前髪の向こうから、同色の瞳が物怖じもせず、真っ直ぐこちらを見詰めている。
そのまま、男は目を細めた。

「見苦しい、悪足掻きをする為にな……くだらない」
「くだらない?」

その言葉を聞き咎め、一人が問い返した。
いくら敵とは言え、今この城に残っている人間は、心が痛くなるような決意と共に戦っている。その様を眺めてきた者達にとって、男の言葉は不快以外の何ものでもなかった。

湧き上がったどよめきにも興味はないのか、男が再び繰り返す。

「くだらないさ」

酷薄な響きが、石造りの壁に反射して落ちた。



「こんな国など、滅びてしまえ」



憎悪の滴る笑いが、男の口元に貼りつく。

「幻想だ。その為に、どれ程のものが失われた?」

その言葉に、誰かは知った。
この男は、絶望に生きて来たのだと。

「これが報いだ」

この男は、この姿は──幾多の叫びと命を踏み躙り、争いを続けて来た結果だ。
戦が奪うのは命だけではない。心もだ。

「俺は……ざまあみろとさえ思っているんだ」

固く凝った声だった。

こんな思いを抱いている者が、どれだけいるのだろう。幾度目かは知らないが、そう軍主は思った。
ハイランドを恨む者が、同盟を恨む者が──この世を恨む者が、どれだけいるのだろうと。

誰かが、乾いた唇を湿らせて訊いた。

「つまり……お前はもう投降したいと、そういう事か?」
「別に」

男は一瞬にして笑いを消すと、手に持った目録らしきものを差し出した。

「それは?」
「手引きがなければ、敗戦国の統合には苦労するだろう?もうこの国の文官は殆ど逃亡したからな」

皆が、頭の中で男の意図を探った。
滅びに瀕した国へと唾を吐き、こちらへの協力姿勢を見せている。

「……罪の罷免を?新しい国で働きたいというなら──」
「好きに解釈しろ」

男は冷たい声でそう言うと、分厚い羊皮紙の束を投げて寄越した。
受け取ったそれを、軍主は傍らの仲間に預けた。

それを見届けると、男は口中で何やら呟き出した。極めて自然にそうしたので、皆、彼が何をしているのか数秒わからなかった程だ。
ぼう、と左の手の甲が光る。そこに浮き出した紋章は──

一番最初に反応したのは、軍主の脇に付き添っていた精鋭だった。

「──『震える大地』?!」
「止めさせろっ!」

焦りと共に、各々が飛び出す。
逃げる場所などある筈もなく、男は剣の平で肩口をきつく打ち据えられた。
しかし、その唇は僅かに痙攣しただけで、言葉を空に刻む動きは止まらない。

「……ちっ!」

苦い舌打ちと共に、今度は手加減のない刃が振り下ろされる。男は僅かに身を捻ったが、逃れられない。
真っ赤な血が、飛沫いた。

「!!」

黒い瞳が見開かれ、呪文が途切れた。
紋章の光も消える。

肩を抱くようにして、男はよろよろと後退した。
どん、と扉に背を預ける。

ひゅうひゅうと、風の通り抜ける枯れ草のようにその喉が鳴っていた。

その唇から赤いものが、ぼたぼたと零れ落ちた。
けれど、そんな凄惨さは、今更真新しいものではない。

「勝手に、すればいい……国でも、何でも……」

苦痛に震える声で、男は呻いた。

「でも、此処は……通さない」

そんな口を利いても、最早、彼に何か出来る筈はない。
だが、誰もそんな事は指摘しなかった。代わりに、問いかける事はひとつだった。

「何故……」
「俺に聞くなよ」

男はそう呟いた。

「俺にだってわからないんだよ」

憎んでいるんだ。

それでいいだろう、微かな息でそう言うと、彼は小さく笑った。
その両眼から、すう、と涙が伝い、冷たい床へと落下していった。















今なお荘厳さを保つ空間に立つ。
シードは、無遠慮な闖入者達を眺め渡して、素っ気無く言った。

「二対六、ねぇ」
「予想よりはましな人数差だ」
「アンタどんだけ悲観的なのよ……」

クルガンの声もやはり素っ気無かったが、シードと違い彼はこれが常態である。

「皇子は一対十八だったぞ」
「成る程。俺達は舐められてんのか」
「……」
「何不機嫌になってんだよ。アンタが言い出したんだぞ」
「煩い」

そのやり取りを前に、一人の男が進み出た。
クルガンとシードの会話が止む。そして彼に視線が集まった──お互い、知らぬ顔ではない。

両将軍に呼びかける形で、男は、神妙に宣言した。

「──俺は今から鬼畜生みたいなことを言うぞ」

シードは驚いたように両眉を持ち上げた。
そして、からかう口調で返す。

「どうぞ。でも俺、そういうのにゃ慣れてるからあんま効果ないと思うぜ?」

その言葉に、クルガンは僅かに首をかしげた。腕を軽く持ち上げて、問う。

「初耳だ。何が原因なんだ?」
「えーと、アンタが俺の首筋から凶器をのけてくれたら教えます……」

男はその様を眺めながら、静かに口を開いた。



「退いてくれ」



一瞬の後。
シードは、奇妙な笑いを顔に飾ってこう言った。

「……こりゃ驚いた。なあクルガン、アンタ以上の鬼畜がいたぜ」

クルガンは答えなかった。
男が更に言い募ろうと呼びかける。

「クルガン、シード、」
「ふざけんな」

シードは、特別な声は出さなかった。
けれど、譲るという選択肢をはっきりと拒絶していた。

「出来ねぇ事はわかってんだろ」
「遅くはないだろう?何故、そこまで意固地になるんだ」
「うーん……まあ、誰もが納得するように言うとだな」

シードは腕組みをして、二秒考えてから説明した。

「一応な、俺らは軍団長なんていう偉そうな役職に就いてる。責任は放れねぇだろ?死んだ部下にも殺した敵にも申し訳が立たねぇし」
「これが責任の取り方だって言うのか?!そんな馬鹿な事を──」
「ああ、馬鹿だよ。馬鹿しか残ってねぇよ」

赤茶色の目に、気負いはなかった。
そして、動揺もない。

「ここに来るまでだって、沢山いたろ?物分りの悪ィのがさ……そいつら、退けって言ったら、退いたかよ?」

シードの言葉に、返る響きはない。
簡単だが、答えようのない問いだった。

「この道以外は選べない。……わかるだろ?」
「でもっ、」

男は、僅かな可能性に賭けて、今度は別の人間に水を向けた。
冷徹なまでに理性的な判断で知られる将にだ。

「クルガン、何であんたみたいな奴まで……こんな感傷的な、」
「……つまり」

この期に及んでの弁明を、彼は放棄した。
あっさりと、短い言葉を口にする。

「嫌だからだ」

シードが呆れたように眉根を寄せた。
クルガンの肩に手をかけ、仰々しい溜息を吐く。

「……アンタな、仮にも知将がその駄々っ子発言はどうよ」
「知らんな。俺がつけてくれと頼んだ称ではない」

悪びれず、クルガンはその腕をぱしりと払いのけた。

「しかもつい先程、『ここにいる時点で馬鹿』と、当の馬鹿に断じられたからな。相当頭が悪いらしい」
「アンタそれ、俺に皮肉ってんだか開き直ってんだかわっかんねーよ」

シードが笑う。その様は悲壮と言うのではなく、無苦というのではなく──ただ、惜しかった。
諦めきれないのか、なお言い募ろうとする男を、傍らの相棒が押し留める。

そして、剣を抜き放つ音が、高い天井に響いた。















最後の魔力を振り絞ったのだろう、回復の青い光がシードの身を包む。
そして、それを見届けぬまま、彼の額が落ちた。シードは苦い笑みを刻んだ。

何だって、そんな事をする。

「ばっか……アンタの方が体力ないんだって。知ってたろ?」

がくがくと震える肘を床に突き、顔を上げる。
重い身体を、剣を支えに立ち上がらせる。

「何やってんだよ。馬鹿」

潰れかけた目を光らせて、シードは再び剣を構えた。
クルガンに止めを刺そうとする切っ先を払いのけ、紋章攻撃を受けた。彼はもう死んでいるのかも知れないが、そんな事は関係がなかった。

たんぱく質の焦げる臭いくらいで──自分の身が焼けるくらいで、今更。
今更気分が悪くなるものか。

「それともこれは、面倒臭い事は俺にやらせようって、そういう魂胆か?」

口の中で呟きながら、シードは軽く笑った。そうでなければ泣いてしまいそうだった。
泣く思いなんて何度も味わわされて来たのだが、慣れる事は出来そうにない。ただ、それでもどんなときでも、絶対に泣いたりはしないというのが、何故かはわからないがシードの意地だった。

泣くものか。
負けるものか。

俺は──俺は。

「うあああああああっ……!」

獣のように吼え、一度剣を振るごとに、シードの身体には傷が増える。
けれど痛みも苦しみも、悲しみですら、シードを止める事はない。

目を覆わずには居られぬような、悲惨な姿になっても。
シードは剣を振り続けた。

灼けた鎧に腕が触れ、また焦げた音が立つ。
生きながら地獄に落ちて罰を受けているような、その光景を、冷えた声が貫いた。

「将軍」

同盟軍主は、仲間を下がらせると、シードの前に進み出た。
激情の視線を真っ向から受けても、少年は動じなかった。

震えのない声で、言う。

「──視野が狭いのでは、ないですか」

燃え上がった炎に注がれる冷水。
少年は、ぴしゃりとシードを言葉で打ち据えた。

一途といえば聞こえは良いが、ただ、それ以外のものを見ないだけだ。
それは、思考の停止ではないのか。

「本当に、皆のことを考えていますか……?」

少年の問いかけに、シードは黙した。

「貴方達にはまだ、他の道がある。貴方達の国の民が居なくなるわけじゃないのに、先の事を考えずに、無駄に命を捨てて美学に走ろうとしている」

もっと違う決着のつけ方もある。
この上愚行を繰り返すのは、単なる自己満足でしかない。

「それは──甘えというのではないですか」

それは、逃げでは、逃避では、ないのか。
現実を見据えて、考えて、いるのか。

「貴方たちは、その行いは、害悪だ」
「……言い切ってくれたねえ。いっそ気持ちいいぜ、その態度」

シードは目を閉じ、苦い息を吸った。

「正しいもんな、おまえらさ」

ジョウイもそうだった。
巨大な視点で物事を考えていた。世界地図でも眺め渡すような、高い視線。統一国家が作られたなら、争いは終わる。
その為に──ハイランドが、なくなっても、多分、彼はかまわなかったのかも知れない。
最善を選ぶ。
それこそ、多分、人の上に立つものの視点なのだろう。

シードには無理だ。

「おまえら、もう、この後の事(・・・・・)を考えてる」
「────」
「そりゃ、おまえらには全然わかんねぇだろうよ。実際、俺にだってちゃんと理解出来てない。頭悪ぃから」

例え狂気でも、構わない。

間違っていたと断罪されれば、諦められるのか。
己の軌跡の全てを?走り続けて来た過程を?涙を?歓喜を?激情を?

間違ったから、捨てられるのか?
醜い醜い執着を、放棄出来たら幸せか。

「綺麗な道じゃ、ねぇよな。賢い道でも、ない……」

伏したクルガンの前に立って、シードは震える腕を上げた。
今にも折れそうな、刃毀れだらけの剣は、それでもまっすぐ前に向けられていた。

「許してくれとは言わねぇよ。自己陶酔に浸らせてくれ」

夢から、覚めたくない。

「でも俺は!」

シードは叫んだ。
全世界に表明してやるつもりだった。

人類愛は、自分には大き過ぎる。
これだけで精一杯で、これだけは、持っていたかった。これがあればそれでよかった。
だから、これを守ってきたのだ。
他の全てをいくら積み上げても、シードには何の意味もない。

世界は一面に平等には見えなかった。幾千万の星の中で、ただひとつだけが、自分のものだった。
シードにとっての光だった。

なんでもいいだなんていえるわけがない。

聞け、この世に神がいるのなら。
身を削るこの叫び、慟哭──祈りを。

「この俺がいい、こいつがいいんだ。守ってきたんだ、ここがいいんだ!」

ひたすらに、愛してきた。

代わりなどどこにもない。失えない。ひとつしかない。
俺のものだ。
消したくはない、譲りたくもない──俺の、ものなんだ。

叙事詩になんか謳われなくていい。
思い切り無駄に死んだっていい。
指をさして笑われても。
冷静な顔に酷評されても。
愚か者だと罵倒されても!
どうなってもいい。
どうなってもいいんだ。

──今、この願いが叶うなら。
















「は……ははは、は……!!!」

けれど──けれど、奇跡は起こらない。
どんなに望んでも。足掻いても。
目の前の現実は変わらない。流れ落ちる汗も涙も、血も。シードの存在の全てだとて、歴史の流れを変えられない。
想いが力になるなどと、そんな都合のいい話は、ない。

わかっていた事だ。
こたえは返らず、救いの手もない。
そして、炎を上げながら──シードも、この城も、燃え尽きる定めなのだと。

「はは……!」

だから?
シードは笑う。


だから、俺に折れろっていうのか。
馬鹿じゃねえのか。


シードは抗った。挑み続けた。全身から血を吹き、赤く染まっても、なお。
運命や、条理や、物理法則や──この世界と、この歴史に、抵抗した。

欠けた剣を地に突き、立つ。
乾いた声で、シードは吼えた。

「希望を……残しちゃ、いけねぇか」

ジルが、ジョウイが──生き延びる事を、望んではいけないか。
百万分の一の確率でも。

ハイランドの、存続を、望んではいけないか。

「いけねぇって、言うのかよ……!」

惜しくないものを賭けたのではない。
この自分も、傍らに倒れた男も──シードは正直、惜しい。失いたくは無い。

だが、それでも願うものがある。

動けよ、体。
目の前の敵を、倒せ。

ごぼり、と血の塊を吐いて、歴戦の将は──とうとう膝を突いた。
しかし膝を突きながら、それでも在りし日の彼がそこにいる。
目を光らせて。
不敵な笑み。


戦場でこの男の前に立てば死ぬ。それははっきりとした事実だった。
猛る将。畏怖とともに語られた、その称号。
傷つき動けぬ今でさえなお残る、その激しさ。
シードの本質は、いつも変わらない。

──震えが走るほどに!

「……この俺を、こいつを、賢しげに見切るんじゃねぇよ。殺すぞ?」


鮮烈で、恐ろしい。


「何の為にここに立つかを、一言で断じるんじゃねぇ……!」

この期に及んで傲然と、敵に対して命じる男。
塗れた血に燃え盛る炎。その赤。その──命そのものが、例えようもなく熱い。
火焔将軍と呼ばれる男だ。

「人の覚悟を、見縊るな」















「今更ですが……将軍」
「俺は、キャロに住んでいた。ハイランドの人間でした」
「貴方達の事を、知っていました」

謝罪はない。許せとも、すまないとも、当たり前だが少年は言わなかった。
そして責める言葉も無かった。

「俺は……貴方達が一生懸命だった事を、知っている」


「忘れない」















こんな場所でこんな風に横たわるなど無作法極まりない。
血で汚れきってしまった皇宮の中でなお、クルガンはそう考えていた。

指先の感覚は無く、凍るように体中が冷えている。まるでぼろ雑巾だ、この肉体は。
クルガンはぼんやりと目を開けて、崩壊のさまを眺めていた。
ぴしぴしと、白亜の柱にひびが入り、天井が剥落して人の頭ほどの瓦礫が次々と落ちてくる。
出来すぎた舞台だな、と、他人事のように思った。

隣から、形容しがたく間抜けな声が上がる。

「俺達さー……超カッコいーと思わねー……?」
「なんともまあ、芝居がかった最期だ。夢物語の幕には相応しい」
「まーだンな事言ってんのかアンタ……」

呆れたように言う声音が何故かひどく可笑しくて、クルガンは気付かれないよう声を立てずに小さく笑った。
こんな自分は知らなかった。こんな風に笑う奴は。

「俺は……」

口腔に溢れる血の味と共に思い出す。
悲鳴と怒号、罵倒と怨嗟にまみれた生だ。そう、クルガンという男は──

「何人も、何人も陥れた」
「何人も……何人も、傷つけ、奪って、殺した」

軍人になると決めたときから。
この国に忠誠を捧げたときから。

「人の心は捨てたと思った」
「でも」

「機械じゃないから」

伝えるのが遅れた。こんな瀬戸際になってやっと。
ずっと待たせて、すまなかったな。


今、言うから。


「シード。お前がいたから、悪くはなかった」




俺は、俺の命が滅びることについて、別にこだわりなんかもってはいない。
いつかは来るべきものだ。特に、感傷に耽ることではない。

ただ。

お前と会ったこと。
お前が俺を見たこと。
俺を追って来たこと。
俺の名を呼び、俺を愛したこと。


それは、奇跡だったと思っている。

凍った地で見る、遠い炎よりも、なお。




悪いが俺は、お前を一番に考えたことは無い。お前の命が滅びることについても、俺はやはり諦めているんだろう。
ただ、この奇跡が、こんな不確実な感情が、多分、もう絶対になっている。俺のどんな疑心も敵わないくらい。


お前が傍にいることが。


それはいつか終わる話などではないと、今、確かに俺は思っている。
夢物語ではないと。


こんな思いは、絶対に口には出さない。
……だが、お前には、もうとっくにわかっていたことなのかも知れない。

どうにも格好がつかなくて、困る。
この俺が、まったく、なんて様だ。



笑うか?
















「明日は……どんな天気になるんだろうなあ…アンタが……そんなこと言うからさ」

傲慢で格好付けで、おまけに素直じゃないアンタが、ね。
ビックリだよ、ホントにさあ。

シードは肩を僅かに揺らして笑った。

でも、アンタ結構、ロマンチスト、なんだよな。
まあそんなの、俺だけ知ってりゃいいけど。

「明日は……明日、は、……」

後から後から滑り落ちる暖かい雫が、耳の中に溜まっていく。

息をすることさえ相当に苦痛だった。
だが、シードは乾いた唇を震わせて、微かな音を紡いだ。

「あしたは、どんな、」


この声は、何処まで届くだろうか。


「はは……俺も、らしくねぇこと……言っていいか」

もう聞こえないだろうから、大きな声で。
素面では絶対に言えないことを。

「なあ……」

アンタは、愛するには不適切な男だ。
でも──でも。


「なあ……クルガン………?」





もう一度、俺の名前を呼べよ。
そうしたらまた、何処でも、何処までも走っていける気がするから。











































皇国暦二百二十四年 皇宮ルルノイエ落城
ハイランド皇国滅亡