JEALOUSY
酒場に入った途端、サンジは「あ、面倒臭え」と思った。
サンジはこれでいて結構真面目な職人──あるいは勤勉な主婦──タイプの人間であるからして、作業はてきぱきとこなし、やるべきことは後回しにしない。面倒だなんて考えるより先に手を動かすことが多い。しかし、こと「やつ」に関する問題に対しては別である。
出会って以来、サンジはやつに関して手よりもさらに先に足を動かしてきた。口が酸っぱくなって発酵するほど説教も垂れ流してきた。しかし実りはない。やりがいもない。永久凍土でバナナを育てる試みほどにも何も得られない。
するべきことはすでに実行しつくし、しかし望む結果はついてこないのだから、サンジがうんざりしても仕方がないように思う。できれば、陸にいるときくらいはやつのことは忘れたい。
もううんざりなのだ、ゾロにも、ゾロ的なものにも。
「────」
面倒な気分になりながら、しかしもちろん、ゾロ的なものによって己の行動選択を曲げることはサンジの性に合わなかった。だから、面倒なのでここで回れ右をするという頭のいい選択はナシ──そう、男という動物は相当にままならない行動原理で生きている。
サンジは溜め息を殺しながら、そのまま酒場の雑然としたテーブルの不規則な隙間をかい潜って進んだ。目当ては、その土地ならではの素材を使った料理と、仕事のカモを物色している女性である。
サンジは世の中のすべてのレディにとって、とても都合のいいカモであるから即座に捕まえてほしい。財布の中身は明け渡すが、彼女らの身は削らせない──この愛の道化師にとって、ほんの少しの笑顔で対価は十分以上だ。
頬の辺りに据えられた、ぴりっと刺すような視線を、サンジはあえて無視した。
酒場の隅で、おそらく非常に度数の高いだろう酒を仏頂面で消費しているのは、ここ数か月(あるいは数年?)ゾロに付きまとって世界一の剣豪の名を奪おうとしている剣士だ。
ゾロのケツを執拗に追い回す、この手の輩は珍しくない。ゾロだって、かつて鷹の目のゴツゴツしたケツを追い回して熱烈にストーキングしていたものである。ある種の信仰を持つやつらにとって、「世界一」とは三食粗食にしても買いたいブランドバック的なものであるらしい。
そう、信仰だ。
ブシドーなるものに夢中になっている彼らにとって、その体現者が生活無能力であるとか、サイコパスであるとか、あるいは何も生産せずに飯だけ食らう穀潰しであることは無視すべき要素である。見たくないものには目をつぶる、暗闇の中で真摯に祈る。信者というのはそういうものだ。粗を見てしまうようでは「信仰」を保つことはできない。
そして信者にとっては、教祖の周りに不信心者がいれば排除する、というのが当然の行動原理であるようだ。敬虔なシスターにギャンブル狂いの酒浸り男が近づくのを阻止することが当然なら、ゾロと同じ船に女狂いが乗っている(しかもそいつはゾロを足ふきマットとして扱う)のが気に食わないのは当然、ということだ。
あからさまに当ててこられる敵意を、しかしサンジは打ち返さない。
他宗教にはかかわりたくない。
サンジが信奉するのは「騎士道」だ。女性や弱者を守るためならどこにでも出張っていこう。しかし、強さとか名誉とか食えないものだけにこだわり、ましてや原始時代からそのマッチョさをステータスとして、「女を消費する」ことが男らしさと考えがちな界隈(女に「媚びる」ことは罪でさえる界隈!)はサンジにとって犬の糞と同じだ。クソは便所に集まってろ。
「────」
ことさらに無視していると、ゾロ的な剣士の感情がいら立ってくるのがサンジには手に取るようにわかった。その頭の中で考えていることですら、読もうと思えば読めるが、ガキの日記を盗み見するような趣味の悪いことはしない。サンジは美学に生きる男なのである。
大体において、こういう、自意識が非常に苛烈なタイプの剣士(もう少し易しく表現すれば、「カッコつけ野郎」)は、初手に自分から動いて言語的コミュニケーションをとる、ということをしない。大体は相手から絡まれるのを待つ。これが口下手な乙女なら可愛いが、いい歳をした野郎なのだからサンジとしては空気を読んでやる義理はなかった。
「ここに座ってもいいですか? 夜の帳の眼差しをしたレディ」
サンジがカウンターに陣取り、暇そうにしていた麗しき黒髪の女性を褒めたたえ始めると、その舌の滑らかさに反比例して酒場の空気はどんどん凍り付いていった。
もちろん温度が下がっているのは剣士の殺気のせいである。この種の人間にとって、サンジが放つ女性賛歌は不愉快な騒音らしいのだが、深刻な脳の欠陥が理由なのでサンジは「スプーンを投げて」いる(ワの国で習った表現。カトラリーを粗末に扱うのはサンジの文化圏では相当凶暴な行い)。
あと数十秒で我慢できなくなるだろうな、とサンジは予測し、そのとおりになった。
「……おい」
「────」
「黒足よ。暇なら手合わせ願おう」
サンジは女性を褒めたたえるという一大プロジェクトに従事しているので、まったく暇ではない。というか、たとえ食糧管理の一環として米粒の大きさを一粒一粒計り始めるほど暇な状況だとしてもクソとは遊びたくなかった。
だが、レディに迷惑をかけたくもない。
サンジは数秒迷ってから、振り向いた。
そして、椅子に座ったまま相手を見上げながら、唇の端だけ吊り上げてやった──挑発的な表情が自分に似合うことをよく知っているので。
目が合う。
「────」
こういった類のゾロ信者は、気がおかしくなるほどサンジに嫉妬している。
彼らがゾロに憧れても、ゾロは彼らを眼中に入れないし、認識しない。何度挑戦しても顔も名前も覚えてもらえない。崇拝は一方通行の片想いだ。
それなのに、サンジはゾロの関心の対象になる。同じ船のクルーであるという「ただそれだけ」を理由に、ブシドーのご本尊を粗末に扱って許されている。それは妬くだろうなァ、と理解するくらいの想像力はサンジにもある。
せいぜい嫉妬すればいい。
羨ましがられる立場はそれ自体魅力的なものだ。羨望を集めるのはセクシーだ。それに単純に気分がいい、ゾロ的なものを悔しがらせるのは!
「お前──」
ぎらり、と、飢えた野犬のように双眸を光らせ、若い剣士は間合いを詰めてきた。
手を伸ばせば首を絞められる距離だ。
こちらに伸びてくる指先をなんの緊張もなく放置しながら──ああ、やっちまったなァ、とサンジは思った。
「……っ!?」
気配を察することができたのは、さすがゾロ的なもの、と言ってやってもいい。
ごっ
しかしその直後、ゾロ的な犬の糞はしょせんクソなので、白目をむいて膝をつき、店内に膝の骨と床がぶつかる嫌な音を響かせた。そのまま、泡を吹いて崩れ落ちていく。
その急性疾患に驚くことができたのは、サンジが口説いていた女性だけだった──残りの人間はすでに意識を失っていた。酒場の店主も、管を巻いていた酔漢も、食べ残しを餌としてもらっていた猫までも。
傲慢で剣呑で、まるで抜き身の刃のような覇気に「斬られて」しまった被害者が酒場の外に及んでいてもサンジは驚かない。
しかしどうしてこう、やつの振る舞いは常に繊細さのかけらもない、恐竜の突進みたいなものになるのか。サンジが相殺していなければレディにまで被害が及んでいたのだが?
挑発的な笑みを維持したまま、サンジはゆっくりと酒場の入り口のほうに顔を向けた。
ちょうど、緑色の髪をした男が、ひどい仏頂面で入ってくるところだった。
「……誰彼構わずガアガア絡むんじゃねぇ、アホコック」
正直、サンジはゾロ的な剣士自体の相手自体を面倒だと思っていたわけではない。なぜなら、サンジが蹴っていいなら1秒くらいでことは足りるわけだし。
というか、あれがサンジから喧嘩を売っていたように見えていたならゾロの認識能力は藻以下だと思うのだが、まあそこはサンジは追及してやらないことにした。
「──すいませんねェ生意気で」
ゾロの気に障りやすいように、サンジは煙草の煙をその顔面に吹きかけてやった。
サンジは基本的にサービス精神旺盛な男なので、どうせケンカを始めるのなら手間暇かけて煽り立てることにする。
おれを叩きのめしたいか? 何をやっても気に障るか? 思い通りにならないと気分が悪いか? さてさて──サンジは大声で笑いだしたくなるのを隠すのに苦労した。こいつ、自分の面倒臭さを本当にわかってねェのかな?
(すいませんねェ魅力的で!)
せいぜい嫉妬すればいい。
ジェラシー jealousy 薫り高い蒸留酒に、複数のフルーツジュースを加えてシェークして作るカクテル。
様々なレシピのバリエーションがあるため一様にはならない。
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