ドーン!と爆発のような音を響かせながら、大時計台が折れた。
半ばから、まるで筆圧に耐えられなくなった鉛筆の芯のように、ボッキリと。
「キャー!!」
チョッパーはびっくりして軽くジャンプし、ナミの肩の後ろに回った。
ナミは窓の外の混乱を見下ろしながら、優雅にアイスティーを飲んでいる。
がらん、がらあああん!!
大時計台の上に据え付けられていた鐘が地面に落下して、濁った音を響かせる。
本来、正午ちょうどに誇らしく高らかに鳴るはずだった鐘のことを、もう誰も気にしない。ナミはチョッパーを前に抱えなおして、外を見せた。
「さあ、始まったわよ、レースが」
「えっ!? なんで!? 12時スタートだって言ってたじゃないか」
「違うわよ、『鐘が鳴ったら』スタートってルール」
口元には余裕の笑み。ナミは、この事態を予想していたかのように落ち着いている。
「誰が鳴らすか、いつ鳴らすかなんて条件は付いてないじゃない。運営は12時に鳴らす予定って告知してたけど──そんなの待たなきゃいけないって決まりはないわよ。早く飛び出したい誰かが、やっちゃったんじゃない?」
「いいの!?」
ナミはチョッパーの背中から毛玉をひとつ取って、ふっと風に流した。
それは衝突音の中、爆風に乗って天に舞い上がっていく。
「いいのよ。これは世界国家のオリンピアじゃなくて、海賊のオリンピアなんだから」
ОLYMPIC
サニー号で守銭奴といえば、それは航海士のナミであろう。
彼女の損得勘定がしっかりしていることは自他ともに認める事実で、彼女は価値を感じないことにはビタ一文支払わない。センスのない服が9割引きになっていても素通りする(有望株には1億ベリー投資するのに)。
そんな彼女が結構な参加費を投じてクルーを送り込んだのだから、ナミはこのレースで一儲けするつもりに違いなかった。具体的には、レース賭博で。
チョッパーが見せてもらった賭博オッズ表はこんな感じである。
打ち上げ枠 25倍 モーダッシュ(世界国家オリンピア金メダリスト)
猪突猛進枠 9.3倍 ストレイト・フォ(ポーカー海賊団)
筋肉万歳枠 9.5倍 マッソー・ジャンブル(蝋人形海賊団)
メガトン枠 1.8倍 ムー(巨人海賊団)
腹黒陰険枠 1.9倍 ナナコロビ(裏海賊同盟専務理事)
悪キツネ枠 4.5倍 フォクシー(フォクシー海賊団)
死ね死ね枠 5.3倍 ロロノア・ゾロ(麦わら海賊団)
ムカムカ枠 2.5倍 サンジ(麦わら海賊団)
「1枠、2枠、とかじゃないんだね……この、『打ち上げ枠』って何?」
「そのうち打ち上がるわよ」
「そのうち打ち上がるって何!?」
「まあ見てなさい。もう始まってるのよ、目を離しちゃダメ」
ナミの言うとおり──そしてチョッパーも予想していたとおり、時計台が崩れ落ちたスタート地点から真っ先に飛び出したのは、身軽で足技に優れるサンジだった。
彼は立ち上る砂煙の中から黒い風のように舞い上がると、まっすぐ大通りを駆けて──
行くわけがなかった。
「死ね!!!!」
ぼごおん!!
技名を叫ぶ手間も惜しんだのか、サンジは単純に飛び上がって、他の選手に蹴りかかった。
「えーー!!!!」
チョッパーは目玉を飛び出させて驚いた。
いや、チョッパーはこれでも海賊歴は長い。海賊競技において、「他プレイヤーの行動の妨害」は当たり前であるから、これに驚いたわけではない。サンジの攻撃対象が問題だ。
「なんでゾロ!?」
チョッパーが描いていたレースの戦略とはだいぶ違う。
せっかく麦わら海賊団は(魔女のねじ込みにより)数の利を得ているのだ。
足の速いサンジはフルスロットルで乱闘から逃げ切り、殺傷力の高いゾロが他を蹴散らして壁になる、これが必勝法ではないか?
「味方と思ってないんでしょうね」
ナミはあっさりと言った。チョッパーも頷きかけた。
味方ではなくライバルだとすれば、確かにゾロは警戒しなければ──
いや、待て待て。
「ゾロがゴールにたどり着けるわけないじゃないか!」
そうなのである。
こと「レース」というものにおいては、スタートからゴールに移動することが不可欠の要素だが、ゾロには難しい。仮に2歳児が通りの向こうに見えている自宅に辿り着くことが可能であったとしても、ゾロには不可能である。なぜって、ゾロだから。
だから、ゾロが競争相手にならないことは、ほかの誰よりもサンジは理解しているはずなのだが──
「まあ、ただ蹴りたかっただけでしょうね」
そうなんだろうな、とチョッパーは納得した。もうそれだけなのだ。
ゾロをストリート1本分ほど吹き飛ばしたサンジは、その反動で宙へと駆け上がった。一般人からすればただの反則でしかない「空を走る」という謎技能を駆使しながら、地面で這いつくばる有象無象を見下ろしている。
『あれ? あれあれ? あー教えなきゃダメだったか? ゴールはこっちの方向でちゅよ~クソ迷子マリモ型筋肉・脳みそ外に置き忘れクン! なんで反対方向に行っちゃったのかねえ本当不思議で仕方ねぇなァ、方向感覚が発酵してんだろうな! 皆さ~ん、励ましてやってください哀れな藻類を,アイツこの前とうとうメリーゴーランドの中で迷って出てこられなくなったんですよ!』
近寄った中継用カモメがいたのだろう、スクリーンに映し出されるサンジの口からゾロの恥部が全世界に向けて発信されていく。ゾロの二つ名が「木馬のゾロ」になったら懸賞金は下がるだろうか。
吹き飛ばされたゾロが、がれきの中から立ち上がる。
「…………」
ゾロの位置でサンジの声が聞こえるわけはもちろんないのだが、サンジの表情だけで,ゾロは彼の言っている内容の全てを察したようだった。その察しの良さを、どうしてほかの場面では使ってくれないのだろうか。罵詈雑言だけ以心伝心。
チョッパーは、ゾロの次の行動を簡単に予想することができた。今度は当たった。
「『滅べ悪魔マユゲ……!!』って言ってるんだろうね」
「そうね。もともと隙あらば滅ぼそうとしてるからいつも通りね」
ゾロが刀を振って、巨大な斬撃を次々と飛ばす。
目標が空にいるからまだいいが、ゾロのポンド砲が当たれば街並みが豆腐のように切り分けられてしまうので、チョッパーはヒヤヒヤしながら見守った。
サンジは器用に空中での方向転換を繰り返し、ゾロの斬撃を避けた。サンジは見聞色の覇気を使うのが上手なので、直線的な動きは簡単に見切られてしまうのだ。遠距離戦はゾロに不利である。
しかし、ここでサンジの独走を許すゾロではない。ただコケにされて終わることはお互い未来永劫の悔いになるらしいのである。もっと違うところを悔やんでほしい。
サンジが見えなくなる前に、ゾロは斬撃ではなく、別のものを飛ばし始めた。
『ノロノロビィーーーーーーーーーーーーーーーーム!!』
ゾロの剛力により空を切って飛んでいくのはフォクシー海賊団の悪ギツネである。飛びながらビームを繰り出しているので、攻撃範囲はかなり広い。
あのノロノロビームは当たると怖いのだが、サンジはリズミカルなステップで華麗に攻撃を避け──
『うおっ!?』
後方から飛び込んできたビームが髪を掠った。髪の先だけノロノロになった結果,無理な動きについていけずに髪が引き抜かれたようで──あれが仮にハゲになったなら、この島の存続が危ういのでチョッパーは一生懸命見た。多分大丈夫。
死角から飛び込むビームの正体は反射だ。周囲を取り巻くフォクシー海賊団が、鏡を持ち出して掲げたり、鳥に運ばせたりしているようだ。偶然の結果はサンジにも読み取ることができないから、このままノロノロビームが乱反射する事態になればピンチだ。
サンジはあっさりと、ビームの元を絶つことにしたらしい。ビームの間を高速ですり抜け、飛んでくるオヤビンを迎え撃つ──ことはせず。
サンジの横をすり抜けたオヤビンは、反射してきたビームに飲み込まれ急停止した。
そのゴタゴタの間に、次の砲弾が飛び込んでくる。メガトン枠、巨人族のムーのフライングボディーアタックだ(ゾロに投げてもらう必要、あったのだろうか?)。
がぼごどおおおん!!
チョッパーの心臓がピョンと跳ねるくらいの音で、ムーの体の影にサンジが消えた。
大きなドームの上に落ちたムーは起き上がろうと動いているが、ムーの胴体とドームの屋根に挟まれたサンジはどうなったか。絶対に死んでないんだろうなあ、と確信しているので、サンジを心配する気はおきない。心配しているのは、あのドームの修理費って誰が負担するの?という点だ。ナミは出さないだろう。
起き上がるムーの顎を狙って、サンジが彗星のように蹴り上げていくのを、チョッパーは特に感動もなく眺めた。知ってた。
そのサンジの行動を見越した絶妙のタイミングで、折れた時計台がミサイルみたいに飛び込んでくる。時計台の先端が、サンジの脇腹をえぐり込む巨大なパンチに見える。
「もったいない! まだ時計は修理できたかもしれないのに!」
「島の財産だから修理してもナミのものにはならないよ」
「修理代が取れるわ。時計台がなきゃ困るでしょ? 島民のためにも修理するべきね」
一見常識的なことを言っているようだが、ナミはこのレースにモンスターを2匹も送り込んだ女である。明らかに、町の損害の原因の何割かはナミにあると思うし、麦わら海賊団宛てに修理代を請求されるのを心配したほうが良いのではないか?
サンジとゾロの争いの余波を縫って、地道に走っているモーダッシュ(らしき金メダルを下げた男)が見えた。普通に足が速い。頑張れ、頑張れ真っ当な人……!
ばこーーーーーーーーーん
「分かってた、分かってたんだけど……」
チョッパーは静かな目で、打ち上げられて星になったシルエットを見送った。所詮,「ただ足が速い人」は、海賊競技には耐えられないのだ。音速くらいは出さないと、打ち上げ枠からは逃れられない。
時計台ミサイルを食らったサンジ(と巻き込まれたムー)は横方向に吹き飛んでいく。ムーはそのまま平屋の建物を巻き込んで地面に倒れたが、サンジの姿は砂煙に紛れた。
その隙に、ストレイト(猪突猛進枠)とマッソー(筋肉万歳枠)とが、お互いを攻撃しあいながら瓦礫を蹴立てて進んでいく。ミサイル砲台であるところのゾロは、道を聞くための通行人を探してゴールとは真横の方向に進んでいくようだ。今こんなところをノコノコ歩いている者はいないが。
さあストレイトとマッソーのデッドヒートになるか、と思った瞬間、ストレイトは進行方向に蹴り返され、マッソーはやや斜めに蹴り返された。
「ぎゃああああ!」
勿論サンジだ。
どこに誰がいるかということを把握した上で、サンジはマッソーを正確に蹴り飛ばした。覇気のおかげで、壁はサンジの障害にならない。
マッソーが砲弾に選ばれた理由は、たぶん筋肉の分少し重いからだろう。質量の黒い塊となったマッソーはドミノのように建物を巻き込んで、ゾロに倒れ込んだ。
その死角からナナコロビ(腹黒陰険枠)が襲い掛かり、毒々しい色の刃でとどめを刺そうとする。
「ゾロ……!」
ぐしゃ
飛んできた蚊を叩き潰すように、ゾロはマッソーとナナコロビをほぼ同時にぶん殴った。カメラの映像が少し気圧されたようにブレる。
ゾロは気絶したマッソーには取り合わず、一度逃げ出して体勢を整えようとするナナコロビの首根をつかんで持ち上げた。
『ゴールはどっちだ?』
あの程度の「不意打ち」は肩を叩かれた程度でもないのだろう、ゾロはナナコロビを通行人として扱うようだ。
しかし、ここで憤慨するようでは海賊における「腹黒陰険」とは言えない、ナナコロビは見事におびえた顔を作って──ゴールとは全く違う方向、東の塔の上を指さした。
『あっちだな』
ゾロは確信をもって頷くと、ナナコロビに礼を言い、まっすぐ走りだした──ゴールに向かって。
『おーーーーい!!』
目玉を飛び出させながらナナコロビが飛び上がり回転して突っ込むが、ゾロの背中には追い付かなかったようだ。情報の精度が甘い。これがサニー号のクルーで、同じ作戦を採るのなら、ゾロには絶対にきちんとゴールまでの道順を教える。それなら確実に辿り着かないので。
ゾロが走っていく方向には、もちろんサンジがいる。チョッパーとしては、サンジの方が足は速いのだからゾロは置いておいてゴールすればいいと思うのだが、一撃食らってしまってはやり返さないわけにはいかないらしい。なんで?
やがて聞こえてきた罵声と破壊音の嵐をBGMに、チョッパーはしみじみという。
「やっぱりレースじゃなくて喧嘩になったね。ゾロかサンジか、どっちかだけで良かったんじゃないの?」
「無理だったのよ。どうしてこのレースにゾロとサンジ君がエントリーできたと思う?」
「ナミが裏金を積んだから……?」
「違うわよ」
ナミはサンジだけを出場させられるのなら、その方がよかったらしい。迷子のゾロは戦力として期待できないので、うなずけるところではある。
「出場するならゾロとセットでって条件つけられたのよ」
「どうしてわざわざ……?」
「目の前の光景を見ればわかるでしょ。ゾロが相手だと、サンジ君は結局こうなるものね」
そこまで生態が知られているのか、と、チョッパーは肩を落とした。
しかし、ナミの機嫌は悪くないらしい。大儲けだわ、と笑っている。
「25倍よ」
「え?」
チョッパーのクエスチョンマークと、ゴールの方から祝砲が聞こえてくるのは同時だった。
スクリーンが切り替わり、誇らしげにゴールテープを切った勝者の姿を映し出す。われらが麦わら海賊団の双璧はそれにも気づかず、道の真ん中で低レベルな口喧嘩と高レベルな技の応酬を繰り広げている。
「モーダッシュ……?」
大穴25倍。
ナミは手をベリーの形にしながら、にんまりと笑った。
「金メダルを首から下げてるからって、メダリストとは限らないわよねえ」
どうやら、空の星になったあの男は、富の神にナミがささげた生贄らしい。
まさかとは思うが、時計台を破壊して、本来皆が並ぶはずのスタート時の顔合わせを阻止したのもナミではないか?
「オマエ、仲間に賭けたんじゃなかったのかよー!?」
「これが一番いいのよ。どっちかが死ぬまで続けるなんて、面倒くさいでしょ?」
オリンピック Olympic 1900年にパリで開催された第2回オリンピックを記念した、オリンピックとほぼ同い年のカクテル。
ブランデー、オレンジキュラソー、オレンジジュースを同量ずつ混ぜる。 開発当時から現在まで、レシピがまったく変更されていない。
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