AROUND THE WORLD 2














昔、どこかの国では、偉い学者様が、木からミカンが落ちるのを見て「物事にはタイミングというものがある」という真理を発見したそうである。いやー本当にすごい。ミカンが落ちちゃっただけでそれはすごい。

そう感心している凡人サンジのほうは、盗み食いした船長が海に落ちるのを毎日眺めていたって「ゴムに対する躾は無駄である」などという小さな悟りも開けないわけである。むしろ年月とともに怒りは増すばかり、船長の飛距離もサンジのパワーアップに比例して長くなっちゃっている。最近は飛び込んで助けるのが面倒くさいので、ルフィの小指を伸ばして船尾にくくりつけてから蹴るようにしている。そんなわけでもうこれは、船長にとっては単なるアトラクションのひとつに成り下がっている。

話が逸れた。

つまりサンジがいいたいのは、「タイミングというのは、いつ来るのか?」ということなのである。タイミングというものがあるのはわかった、それはあるだろう。認めてもいい、やぶさかでない。しかし、ミカンなら大体実を付けてから半年もすれば落ちるのだろうが、それが目に見えないものだった場合はどう考えればいいのか?

サンジももうあまり若くない。
少なくとも、十代のピチピチした感じではないし、二十代の向かうところ敵なしな感じでもないし、三十代の大人ぶりたい感じでもないのである。酸いと甘いくらいは噛み分けて、割と何でも受け入れちゃう懐の広さを持つべきお年頃なのである。できていない。まったくできていない。それなのに何故だか年だけは着実に重ねている不思議不条理。
サンジも夢見ていたころがあった。そりゃあ、今は俺も波乱万丈疾風怒濤、触れる者みな傷つけるジェノサイドダークサイドな感じだけれど、年を取って落ち着けば、結婚しちゃって、子どももできちゃって、ジジイ孝行するようにもなっちゃって、ついでにマリモとガキっぽいケンカすることもなくなるだろうと。

完全に夢だった。

永遠の愛を誓うべきナイスレディには沢山出会ったはずなのにその全員がサンジの愛の宅急便を不在配達かーらーの連絡なしの刑に処したし、コウノトリは丸焼きになって食卓を飾るだけだし、ジジイは肩を揉む必要もないほど鉄骨製だった。マリモ野郎との関係に至っては、付き合いたてのカップルが「こんなこと初めて!」って言う頻度と同じくらいの感覚で常に新鮮なムカつきを発見していた。朝起きて文句を言い、昼食べて蹴っ飛ばし、夜眠る前に殺しにかかっていた。気付いたら戦ってた。そりゃあもう現状の止めどきがわからない。ぽつぽつと減っていっていつの間にかすっかりなくなっている、なんてオクユカシイ自然消滅の気配は全然ない。常に離婚訴訟の最前線である。

ウソップが勇敢な海の戦士へと成長し、文通を重ねに重ねていたカヤお嬢様と満を持して結婚し、鼻の長い子孫を作ってついに伝説にまでなろうとしている間に、サンジとマリモは何の生産性もない終わりなき血みどろの闘争を繰り広げているだけなのである。ハートのピンクとほっぺの赤のラブラブな記憶の代わりにハート(臓物のほう)のピンクと鮮血の赤の戦時映画みたいな記憶にまみれている。冷静に考えると正直死にたくなる。
ルフィが肉~肉~って喚いているときにサンジはケンカ~ケンカ~って完全に同レベル。たまにルフィが冒険~冒険~ってバリエーション混ぜてくる分ちょっと負けてる。

なぁなぁ神サマ、ねぇねぇナミさん、タイミングっていつ来るのかね?
運命の人って本当にいんのかね? 俺っていつ大人になんのかね? キンパの隙間に白髪が結構出てきちゃって無視すんのも大分キツいんだけどよ。

「ハァ……」

サンジは深い溜息を吐きながら、机に伏せていた本をもう一度ひっくり返した。
『人生が上手くいくたった31のシンプルな方法』。あれである。自己啓発本である。サンジだって若い時分から『必勝ナンパ術390』とか『男のモテ力~追いかけるのではなく引き寄せる~』とか『愛される男性・結婚できる男性』とか軽く十数冊は読んでいるが、上手く行ったためしもないのにさらにもう1冊増やしたわけである。

仕方ないのだ。
背に腹は変えられないのだ。

出版社である北海キャンディ文庫や著者であるアン☆ドゥー☆トロワ博士の実績や人となりについてサンジは何も知らないけれど、そんな海の果てに本当に存在しているのかも確認出来ない不確かなナニガシカであってもサンジにとっては落下するミカンのヘタくらいにはなる。だって今更。人生という名の迷路が樹海過ぎるだとか。迷いまくって気付いたらゴリラの調教師になってたとか。誰に相談すんだ。

さてその本、1ページ目をめくるとまずこれである。

『気負うことを止めよう。人生は、がけっぷちに小指でぶら下がる筋力がなくても何とかなる』

そうかァ。
俺って、気合が入りすぎちゃってたのね。過ぎたるはなお及ばざるがごとしっちゃってたわけね。それで、がけっぷちに小指でぶらさがっても余裕で2週間くらいは快適ライフが送れそうなんだけど。なおかつ、ちょっとした陶芸くらいは出来ちゃいそうなんだけど。その筋力はどうやって落とすんだ?

2ページ目。

『世界は愛で回っているんだ。水、光、空気、全てのものに愛情を注ごう』

もちろんサンジは愛全肯定派である。愛、ルァヴ!がなかったらこの世に生きている意味なんてない。特に女性への愛は重い。多分、大抵の女性ならごめんなさいって言いながら海軍に駆け込んでストーカー規制ルールの保護を求めちゃうくらいに重い。勿論その他のものだってサンジはちゃんと愛している。男共だって犬のクソの次くらいに多分愛している。完璧である。
まあ水とか光とかは確かに傍にありすぎて見えなくなっていたから、今後はそこんとこもフォローすることにする。しかし飲んでー吸ってー吐いてー浴びてーを少なくとも1億回くらいはこなしているのにちっとも飽きないのだから、確かにそこに愛はある。結果オーライ。

3ページ目。

『怠けているんじゃない。まだやる気を出していないだけなんだよ。やる気が出ていないときは、便利なものに頼ったっていいんだよ』

頼ったっていいらしい。しかし、サンジが頼るべき便利なものとは何だろう。
正直、サンジは包丁一本でピーラーを使うよりも薄く野菜の皮を剥けるし、キャベツの千切りだって1個/1分を切る速度だし、生クリームの泡立てだって電気式自動泡だて器より3倍早く終わる。冷蔵庫の鍵を大きくすればいいのか。船長は冷蔵庫ごと破壊してくるのだが。

うーん、うーん、と唸り、納得し、あるいは疑問を持ちながら、サンジは頁を繰った。31頁目。

『さあ、実行してみよう!』













50ベリーコインの穴に木綿糸を通し、輪に結ぶ。
糸を抓んで持って、サンジはコインをゆっくりと目の前で揺らした。コインの軌跡を、目の動きで追う。

便利なものに頼ったっていいのだ。それは、意思の力が弱いとか、怠慢だとか、そういうことではないのだ。大体俺が根性なしでナマケモノだったら話はクソ簡単だったんだゴルァ。

おーれーはーだーんーだーんーねーむーくーなーるー。

いや、眠くなってはいけないだろう。昼寝してどうする。サンジは慌てて方向修正した。素晴らしい人生。ばら色の人生。ジョブチェンジのタイミング。結婚し、子供を育て、ジジイ孝行し、ケンカはしない。やべ、ちょっと多い。

もっと要点をまとめなきゃなあと思ったサンジは、サンジはぼんやりしてくる頭で、『人生が上手くいくたった31のシンプルな方法』の冒頭から思い出すことにした。

おーれーはーきーおーわーなーいー。

おーれーはーせーかーいーをーあーいーすーるー。

なーまーけーてーいーなーいーやーるーきーをーだーしーてーなーいーだーけー……

……………。

……。











すっきりした気分で覚醒したサンジのモチベーションは、まるで求愛期のマンドリル並みに最高潮だった。
今なら俺、やれる。次に目があった女性と結婚できる。若者特有の根拠のない全能感が蘇りすぎて前世まで生まれ変わった感じ。ミカンってシャーベットにすると美味い。

サンジは机からさっと立ち上がると、ステップを踏んで軽いダンスを踊った。ずんたったずんたった、特に意味のない行動ではあるが、さらにテンションが上がる。

スーツのポケットから鏡を出して顔をチェックする。さっきまでとは打って変わって、軽快で色男なダンディではなく、苦みばしった渋いダンディがそこにいた。これだ、この落ち着きが重要。凄く既婚者っぽい。

「サンジくーん。喉が渇いちゃったんだけど」

軽い足音を立てて、サンジの永遠の女神がキッチンに入ってきた。常のサンジなら目をハートマークにして、「あ~んナミさん、すぐ用意するからちょっとだけ待っててねゴメンね~vv」とでもいいながら腰から下をぐにゃぐにゃにしただろう。今日は違った。

「わかったよ」

さらっと言った。
完璧にクールだった。しかも自然だった。ナミがちょっと目を丸くした。

「……どうしたの、サンジ君? 変な物でも食べた? 頭ぶつけた? 熱がある? 何か病気? 脳が腐った?」
「どうかな。心当たりはないけど」

サンジはキッチンに立ち、紅茶を淹れるための湯を沸かし始めた。
物に対する感じ方までも違う。ポットの中に注ぎ込まれる水はまるで液体になったダイヤモンドのように輝いているし、口にする空気は明け方の森林かってくらいかぐわしい。立て掛けているまな板の木目までなんだか芸術っぽい。それだからナミにいたってはもう、なんというか、全て超越した感じの存在に感じる。下種な欲望の対象にしてはいけない神聖なもの、女神というより慈母。いわば、世界。

愛だ。愛に満ち溢れている。ワールド、イズ、ルァヴ!

サンジはナミの気に入りのティーカップを取り出すために、食器棚に近付いた。大股で2歩。そのサンジの脇をすり抜けるように、何かが視界の端っこを素早く動いた。

「!」

それは、極寒の地以外では割とポピュラーな家庭内害虫である。
旺盛な繁殖力と強い生命力を持ち、おそらく人類が滅んでもこの種だけは最後まで生き残る。
黒い彗星ってくらいすばしっこい。しかも、飛ぶ。たまに飛び掛ってくる。顔面にぶつかったら普通にトラウマになるし寝込むしちょっと世の中を憎む。

それくらい気色が悪いんである、奴は。

世の中の女性の9割は奴を見かけたらギャーと硬直する。そして逃げ出す。きちんと武器を手に取った上で逃げ出す。野郎の3割くらいも、大体同じ感じ。昨日までのサンジも、そこに含まれる。

しかし、今は違った。

「…………」

サンジは慌てず騒がず、スマートに腕を伸ばして、そのゴキブリを手の中に捕まえた。ふわっと、まるで仔猫でも捕まえるように優しく。
実際、精神的障害さえ乗り越えてしまえば、単なる黒い昆虫がサンジの敵であるはずがないのだ。丸く緩く握った指の中、かさかさ、と何か触覚か細い脚かそんなようなものが手のひらの皮膚と触れ合う感覚がしても、まあタンポポのそよぎと同程度である。危険度的に。

ナミが、げ、ととても女性が口にするようなものではない音を喉からひねり出した。

「サンジくん、それ……」

ナミの言いたいことはわかる。
しかしサンジはゴキブリを床に叩き付けたあと踵で踏み躙り、洗剤をその上にぶちまけるようなこともなく、そのままふっ、と微笑んだ。ダンディ。ダンディの極み。スペクタクルダンディズム──世界は愛。

この虫にも「いのち」があるのだ。
生きている。

それが、悪いことなのだろうか? 見つけ次第、手当たり次第に虐殺なければならないほどに?
ゴキブリは不倶戴天の仇なのか。ゴキブリに傷付けられるとでもいうのか。ゴキブリに父と母を殺され、恋人と引き離された挙句祖国を滅亡させられた人間がいるのか?

──愛こそ、全て。

こっそりナミのミカン畑にでも逃がしてやろう、とナミ自身が知ったら目を吊り上げて怒るだろうことを考えながら、サンジはキッチンの扉に歩み寄った。

今のサンジの精神状態は大体オーバー天使、アンダー菩薩、といったところである。
生まれ変わったのだ、本当に。ああ、『人生が上手くいくたった31のシンプルな方法』よ本当にありがとう──次は『愛される男性・結婚できる男性』も実践できるかも──目に映るもの全てに感謝できるよ──

しかし、キッチンの扉はサンジが開けるより先に開いた。
分厚い板がかなりの速度でニコニコしているサンジの顔面を直撃し、鼻を一瞬平たくさせる。ドアノブのほうは、肋骨の下、腹部にめり込むように突き刺さる。

「邪魔なトコに立ってるんじゃねぇよ、気ィつけろぐる眉」
「────」



どぎょっ!!!!!!















やっぱりダメだった。

緩んだ指の隙間から黒い彗星がぶうんと飛び立ち、緑の彗星の軌道を追っていくのを、サンジはぼんやりといつまでも眺めていた。









AROUND THE WORLD アラウンド・ザ・ワールド 
大西洋のドライ・ジンとペパーミント、太平洋のパイナップルジュースをシェイクし、ミントチェリーを飾る。
甘くて爽やかな飲み口に比べアルコール度は高い。まさしく飲みすぎると世界一周してしまいそうなカクテル。
アメリカでは昔から愛されているが、 ヨーロッパ系のカクテル・ブックには載っていない。