コックの朝は早い。
 ついでに夜も遅いし昼休みはないので、サンジは結構なストレス環境下にいるはずなのだが、仕事と呼吸は同じだと思っているためちゃっかり幸せである。
 自分の店を持ちオーナーとなってからは、チームのコックどもが我先に下積みさせろと仕事の奪い合いをしてくるので、サンジの取り分が減って少し悔しいくらいだ。

 午前4時。

 サンジは日も明けない冷たい朝の空気の中、鏡の前で髭の手入れをしていた。どれほど忙しい時でも、髭の手入れは怠らない。運命の出会いとは、一期一会。美女にかしずく騎士が、寝癖のついたニキビ男や、顔が綺麗なだけのアクのない男ではつまらないではないか?
 鏡の中のサンジは、いつも同じに伊達男だった。
 片目を隠すヘアスタイル。黒スーツは煙草を咥え始めたころからこだわっている。金髪が少し白くはなり、目じりに小さなシワも入ってきていたものの、まだまだ髪の量は豊かだし皮膚にたるみもない。劣化が早い白人種にしては、表彰ものの男前だと自画自賛する。
 唯一の悩みは──ウェストの。

「サンジさーん、また一味の号外出てたから、あげます」

 ばん、とノックもなく開いた扉に、サンジは慌ててめくりかけていたシャツを引き下ろした。

「とととと突然開けるんじゃねェ!」
「何動揺してンすか。1人エッチなら夜中にやって、百ぺん手ぇ洗ってからイモに触ってくださいよ──ぐばっ!?」

 生意気な口を利く見習い12人目を足ふき代わりに蹴とばして壁にめり込ませる。
 そのついでに、サンジは散らばった新聞を拾い上げてちらりと眺めた。
 数年前に解散した海賊王一味の記事は、思い出したように新聞を飾る。懸賞金が上がるような話はもうない(そもそもストップ高で、これ以上釣り上げようがない)が、一味はサンジを除く全員が顔の割れた有名人だ。全世界に散らばったクルーたちのその後を知るのに、手紙よりも新聞のほうが使い勝手がいいとは贅沢な話である。

「……サンジさん?」

 サンジはオーナーといえばオーナー・ゼフしか浮かばない芯からのファーザー・コンプレックスの持ち主なので、自らのことは名前で呼ばせている。
 見習い12人目は、声をかけながら、やっと壁のめり込みから脱出した。しかし、店の支配者はそのままピクリとも動かず直立している。

「サンジさん」
「────」

 再度の呼びかけにも反応はなく、その手から新聞がぱさりと落ちた。







OD FSHIOND



 









 プルルル、プルルルル。プルルルル。

「ハイハイ、もう、何よ?」

 1分1秒が100万ベリーの価値を持つ、この世で最も「高い」女──ナミは、一味専用機であるところの赤い電々虫の受話器を取った。
 丁度、一本の航海を終えて息を吐いたところだ。一味からの電話でなければ、今しも服を脱ごうというバスタイム前のひとときに時間を割いたりはしないのだが。

「んナミすわぁ~ん、相変わらずお美しいv その目に見つめられたらゴリラだってメロリンラブだ」
「……会ってもないのによく言えるわね」
「おれくらいになるとね、声で分かるのさ。そのレディの心と姿が、どれくらい美しいかなんてことは──リラックスタイムにお邪魔して、ゴメンね?」
「いいわよ、久しぶりだし」

 電話の先は、面倒臭い男につながっていた。
 毎日であれば耐えられないものの、数年ぶりとなれば許容範囲も広がる。しかし、美しさは知らないが、声だけで、少なくとも今ナミが何をしようとしていたのかも察してしまう能力には恐れ入る。
 正直、その女性に対するアンテナの鋭敏さが何か金策に役立てられないかと、ふと考えてしまうくらいだ。

「それで、何の用?」
「君に会えなくて寂しくて死にそうなんだ。今度一緒にマウナ・ロケアニアに行ってキャビアとイチゴとシャンパンのクソ素敵な夜を過ごさない?」
「何の用?」
「…………ホント、こんなクソくだらねェ件でナミさんの邪魔をして悪ィんだけどさァ。あの、筋肉大好き変態マリモ・マッスル・マルッパゲ野郎と連絡が取りたいんだけど、知らない? ほら、いたろ? 端のほうに1人さ、ホモにクソモテ迷子デコのさ」
「あいにく、ゾロを忘れるほどボケてないわよ。アンタたちのそういうところ、全然変わらないわね」

 ひとまとめにするのはやめてほしい、というサンジの愚痴を適当にあしらって、ナミは思いを巡らせた。
 ルフィと同じく、ゾロはこれと定めた本拠地を持たないので、捕まえるのは非常に大変だ。世界地図の完成に向けて積極的に航海を続けているナミでも、最近の居所はつかめていない。

「残念ながら、私も連絡はつかないわ。今朝の新聞でみて、うわぁと思ったところだけど構っている暇はないわね」
「そうか……」
「チョッパーに連絡は取ってみた? あの子なら病院のネットワークがあるから、怪我人の情報なら追えるんじゃない?」






 ドクター・トニートニー・チョッパーは、医学の栄誉であるDrカエサル賞を4度も断った生粋の「ヤブ医者」だ。それでもその偉業と異形は共に同業者には知れ渡っていて、大抵の病院が便宜を図ってくれる。

「ゾロは最近縫ってないよ。知り合いのみんなに頼んで記録をみてもらったけど、病院の診察記録もないみたいだ」

 大病院が用意してくれた映像付き通話機の向こうには、懐かしい金髪黒スーツのコックが映っている。
 内臓疾患はなさそうだ、とその顔色をみて自動的に判断しながら、チョッパーは懐かしさから画面に近寄っていく。

「あいつ、無茶する癖に医者嫌いだから困るな。どこかで行き倒れないか心配だ」
「倒れたら倒れたで本望だろ……チッ、アホの癖に手間ァかけさせやる」
「なんでサンジはゾロを探してるんだ?」
「チョッパー、お前は見なかったのか? あのクソ剣士の記事……」

 口にするのもおぞましい、というように、サンジは身をよじって腕をこすり合わせた。
 サンジが言っているのは、数日前の新聞に掲載させていたゾロの記事のことだろう。チョッパーも読んだが、サンジのような反応はしなかった。

「見たけど、何かあったかな?」
「……気にならねェのかよあれが。トナカイだからか?」
「トナカイ馬鹿にすんな!」

 サンジはゾロと犬猿の仲だ。チョッパーではなく、サンジのほうの反応がずれている可能性があるのではないか、と考えたが、気のいいトナカイ医者はそれ以上のもめ事を嫌って口には出さなかった。どうせ言っても通じない。

「顔を合わせたのもいい機会だから、問診してやろうか? お前だって、働きすぎなところがあるから心配なんだ」
「いや、有難ェが店をまた夕方から開けるから、戻らなけりゃ」

 またこれだ、とチョッパーは眉をひそめた。
 強い男は元よりタフだから自分の体を過信するきらいがあるし、自分の健康よりも優先するものが多いので、結果早死にしてしまう。

「ダメだ。すぐ済むから、ちょっとそこに座って──」
「あ、あー、そういえば鍋かけっぱなし! 悪ィ、チョッパー、もう行く!」

 ぷつん、と切れてしまった通信機を前に、チョッパーは深いため息をついた。
 注射を嫌う子どもならまだわかる。しかし、診察がそんなに嫌なものだろうか?
  もしや不具合が見つかったら不名誉だなどと考えているのではなかろうな、とチョッパーは肩を落とした。
 全く、彼らはいくつになっても、どうしてこう大人げないのだろう?






 ウソップ、ロビン、フランキーと続いて、ブルックに当たる前にようやく当たりがついた。
 造船技術を磨き上げ、船大工にとっての神とも祭り上げられているフランキーには、世界中の造船工場にツテがあった。港に出入りする不審者を捕まえるのはお手のものだ。
「ああ、……ありがてぇ。また今度な」

 フランキーの誕生日にコンドル特急クール便でスペシャルケーキを送ることを約束し、サンジは受話器を置いた。
 さて、状況が分かってしまった。フランキーに気取られないように気をつけていたが、会話の途中から手はぶるぶると震えている。
 やつの居所は明白。後は、サンジがどう始末をつけるかだ。
 

(……どうせ無駄なんだよ、分かってる)
 

 誰が何を言っても意味がない。
 あの男の頑固さ、我が道を往く推進力をサンジはよく理解していた。だからこそ、周りの人間は苦い顔をしても結局は引き止めないのだろうし、職業柄、命を捨てることを最も見過ごせないだろうチョッパーでさえ、半ば諦めている。野生に生きる狼に、「危ないから狩りをするな」という説得が通じないのと同じだ。どうしようもなく無駄だ。チョコレートパイに水をやるくらい無駄だ。いくら待ってもパイの木は生えてこない。

  (だが……)
 

 サンジは深々とため息を吐き、椅子の背もたれに全体重を預けてトラの毛皮の気持ちになってみた。
 無駄だというなら、この逡巡が一番無駄である。
 所詮サンジだ。あの男の胸ぐらを引っつかんで、お前はバカだと言ってやれるなら、チョコレートパイくらい、ジャングルほど作れる男だ(実際一週間もあれば可能だと思う)。

 サンジはこれまでの人生を捨てる覚悟を3秒間もかけて決め、椅子から立ち上がった。
 帳場に顔を出し、店を任せる、といったサンジの言葉に、見習い1号が声もなく気絶した。
 






   サンジはターゲットの後を追って船を出した。航海は3ヶ月、準備期間には十分足りる。
 迷子の足取りを捉え続けるのはなかなか難しいが、手先を通じて仕込んだ発信器が役に立った。もはや野生動物の観察手法に近い。足止めのため、海軍に標的の居場所をリークしたりもした。特に罪悪感もない。

 サンジは、好き好んでこの選択をしているわけではないので、移動中の気分はゴミ出しのため冷えた夜気の中を歩いているときに近かった。やらねばならないが、やりたくない。生ゴミに近寄りたくないが、まとめて集積所まで持っていかないと虫が涌く。
 島に着き、サンジはまずは服屋が立ち並ぶ通りの洒落たカフェで珈琲を頼んだ。珈琲のためにではなく(自分で淹れたほうが旨い)、通りを歩く女性を目に焼きつけるために。それから花屋の前をうろつき、ガーベラと百合を一輪ずつ買った。その後、教会のステンドグラスを見上げ、賛美歌で耳を洗った。たっぷり半日もかけて美を吸収し、心を安らがせ、今後の衝撃に備えるのだ。

 それからサンジは、厳しい顔つきで、酒場が並ぶ海賊通りに向かった。
 発信器など、既に見る必要もなかった──騒がしいほう、血なまぐさいほうにいけば、その中心に、回収すべきゴミがある。
 

「…………」

   覚悟はしていた。覚悟はしていたのだ。
 それでも実際に目の当たりにすると、サンジの血圧は乱高下し、息は乱れ、冷や汗が出て足が震えた。
 衝撃波でなぎ倒される建物の破片が宙に舞い上がり、海兵がゴムまりのように弾き飛ばされる嵐の中で、俊敏に動いている緑色の物体。
 なんというか、アレだ、生ゴミというか、チンピラというか、社会の敵というか、卵液に混ざってしまった卵のカラというか、クソ野郎というか、いわばロロノア・ゾロ──
 ──だなんて認められるか。

  「オイ」

   底冷えした声が、サンジの喉から思わずこぼれた。自分でも、鉄釘のような声だと感じる。
 固く錆びた呼びかけ。喉が上手く動かない。

  「……オイ」

   衝突音と風切り音に紛れ、2度目の呼びかけもどこかに流されていった。
 サンジは、すう、と大きく息を吸い込んだ。
 

 

 

「聞けよこのクソデブ……!!!!!!!!!!!!!!!」
 

 

 

 どこおん、と音を立てて、サンジの踵が敷石を踏み割った。

 それまでぽんぽんと海兵をあしらっていたすばやい肉玉が、ぴたりと動きを止めた。
 真ん丸い顔、頬肉に埋められた目鼻、顎と同化してなくなってしまった首、ぶよぶよに膨れ上がった腹に二の腕に尻。
 それが高速で動いて人を雑草のように刈っていくのだから、もはや妖怪である。機敏なデブ。

 ミートボールは小生意気な様子で(肩は竦められないだろう、肉が邪魔で)、吐き捨てた。何年ぶりになるか、わからないほど久しぶりの会話だった。

  「何だよクソコック」
 

 これはサンジの意訳で、肉に気道が圧迫されているため、塊肉の言葉は実際は「ふんばばふばふっば」だった。
 豚肩ブロックの暴虐が止んだため、ここぞとばかりに海兵の生き残りが撤退していった。それは気にせず、そのままふんばば語でげんこつハンバーグとやり取りするサンジに、野次馬の視線が集まる。
 

「何だよじゃねェよ両耳の間を貫通させて縄通してマリモストラップにしてやろうかデブ。言いてェことはひとつだが、言わなくてもわかれ」
「……お前に何の関係がある。太ったところで死にゃしねぇ」
「テメーが死んでもおれに何の関係もねェってところはいまさら確認する必要ねェよ! そうじゃなくて、美学の! 問題だ!」
 

 己でいうのも何だが、ゾロの美意識がカビの生えたキャベツの芯ならサンジの美意識は険しい岩山の頂上に咲く花である(サンジは、ゾロは自分が寒いと思ったら暖かな肥溜めの中で寝ると信じている)。
 いくら化け物でも、成長期が過ぎれば老化は訪れる。代謝が下がる。若い頃と同じように食べていたら、みるみる太る。完全に中年太りだ。
 それでもこの「己の見てくれになんか何の興味もありませんよ」と顔に書いて、しかもそれが格好いいと思っているに違いない男は、欲しくなるだけ酒を飲み、あるだけ飯を食らったに違いないのだ。栄養バランスや、食事時間など、気にも留めずに! サンジの管理下から離れた間、この男がどんな食生活を送ってきたか、サンジは想像したくもなかった。ああ、切実に蹴り砕きたい。
 

「おれは、てめぇみてぇに金ぴかトサカに気を遣うほど暇じゃねェんだ。女じゃあるまいし、アホほどくだらねぇ」

   その目に宿る意思は昔と変わらない。
 きっと、今までゾロに会った昔の仲間は、必ず「痩せろ」と言ったに違いないのだ。外見ではなく、健康のために。その想いを踏みにじり、知るかとばかりに世にはばかっている男の姿に、理性的な仲間は皆諦めたのだろうが──この肉団子をのさばらせておくことそれ自体、許されざる罪ではないのか?
 

「へぇ……関係ねぇのか、見てくれは」
 

 ゆらり、と何かのオーラが自分の背後から立ち上るのを感じながら、サンジは努めて冷静な態度を装った。
 頭の中はぐらぐらと煮えている。ふんばばふばんば。
 だが、ダイエットしなければ蹴り殺す、と言ったところで、「殺せるものなら殺してみろ」と返ってくるだけなのだ。重々承知だ。
 そこで、サンジはこの数ヶ月で用意した最終兵器を取り出すことにした。
 無言のまま、シャツの裾をベルトから引っこ抜いてめくる。
 ──サンジは人一倍、スタイルに気を遣う男である。贅肉などもってのほか、毎日の運動量に見合った食事をとり、甘味や脂は控えめにし、若い頃の肉体を維持している。努力を外に悟らせないよう、運動量が落ちないよう──コーカソイドであるサンジは、ゾロの3倍、顔が丸くなりやすいというのに!
 その甲斐あって、サンジの腹筋はばっきばきに割れた見事なシックスパックであった。
 数ヶ月前までは。
 

「…………」
 

 サンジがさらけ出した腹は、くびれを失い、ベルトの上に肉がちょっこり載っていた。
 指で突くと、ぷにっ、と音がしそうだ。
 完全な沈黙が場を支配した後、サンジは凄絶な覚悟を感じさせる声音で言った。
 

「……てめぇが肉ゥ落とさねェ限り、おれもダイエットはしねぇ」
 

 関係ねぇもんな?
 

 








「サンジさーん、また一味の号外出てたから、あげます」

 ばん、とノックもなく開いた扉に、サンジは手を差し出した。
 キョトンとする見習い12人目を尻目に、新聞を取り上げる。

   サンジは新聞の一面を開くと、ニヤリと笑った。
 

「……それでいいんだよ」








Old Fashionedオールド・ファッションド
オールド・ファッションド・グラスに角砂糖を入れ、アロマチック・ビターズを振りかける。
ウイスキーを注ぎ、スライス・オレンジやチェリーを入れ、果物に軽く傷がつく程度に混ぜる。
飲み手がマドラーでフルーツや角砂糖を潰し、好みに合わせて味を調整しながら楽しむ。
「Old Fashioned」とは、「時代遅れの」の意。