自分の体で相手を傷つけるというのは、自分を傷つけることでもある。

 とっくに骨が見えている拳を握りながら、ゾロはぼんやりと、だから刀がないんだろうな、と思った。思いながら、腐臭のする肉を引きずっている何かの「なれの果て」の首を力任せにねじ切り、全身から鋭いとげが突き出ている影の塊を蹴倒し、酸の粘液をまとう触手を振り払って進む。進んだ先にあるのはさらに昏い化け物どもの百鬼夜行だ。

 あからさま、ここは地獄である。




FALLEN ANGEL
 




 地獄が本当にあると、生前ゾロは信じていたわけではない。
 ただ、この末路が見えていたとしても、生き方は変えなかった──表向きはそういうことにしておくが、実際地獄に落ちてみるとなかなか後悔もある。
 何せ、地獄はゾロのような罪びとを、おそらく数万、いや数億年も苦しめ続けてきたのだから、その手練手管は遊女よりよほど巧みだった。どうすればゾロが弱音を吐くのか、地獄は芯からわかっている。

 拳が「なくなる」まで身を削って戦い続ける。そのあたりでゾロの頭はもう馬鹿になっていて、動物のようになっているので、そのやり口はそこで終わる。
 苦痛に慣れる前にまた新たな苦痛。今度は、見知った人間が、ゾロと同じような罰を受けている姿を眼前に見せつけられる。ゾロを生んだ父母が、ゾロに剣を教えた師が、ゾロと夢を分かち合った幼馴染が、ゾロの罪のせいで四肢を引き裂かれ、命乞いしながら糞尿を垂れ流すさまを繰り返し目の当たりにすれば、心が「なくなる」まで気は狂った。
 やめてくれ、どうかやめてくれ、とゾロは数え切れないほど懇願したが、地獄は容赦ない。ゾロが無感覚になってくると、また今度は体の責め苦だ。終わりはない。もう死んでいるから、どこにも逃げられない。

「お前ぇ、はァ。……許さねぇぞ……!」

 ゾロは体が腐り爛れるほどの憎しみを込めて、傍らの宙に浮いているひとつの頭蓋骨を睨みあげた。ゾロは悪行を悔いた、悔いてそれでも地獄は終わらない。ならばもう、これのせいにするしかなかった。ゾロの地獄の案内人は、この骨だ。骨はにたりと笑った。骨の癖に、笑った。

 この骨に、ゾロは何度頭を下げたかわからない。許してくれ、せめてほかのやつらは許してやってくれ、ゾロの魂の悲鳴にも、地獄の案内人は楽しそうに笑うだけだ。外道、鬼畜、と罵られてきたゾロだったが、今ならその言葉に堂々と反論できる。そんな言葉をただの人間に使ってしまったら、この骨のまともでない冷徹さをどう表現できるというのだ?

 どんな方法を使っても、絶対にこの頭蓋骨を苦しめて苦しめて苦しめて、どうにかして苦しめる。殺すなど生ぬるい、地獄よりつらい地獄を見せてやる──そう空想するのがゾロの唯一の悦びと言ってもよかった。ゾロの存在と痛苦のすべてを賭けて復讐しようと、そう誓っていた。

 地獄の案内人がどうしたら苦しむか、それが問題だ。
 この骨はゾロが殴りつけても蹴り付けても、ひびひとつ入らない。地に埋めようとしても天に投げようとしても動かせない。代わりに、骨に触れればゾロの皮膚が焼け爛れる。ゾロが何をしても骨自体は抵抗しない分、所詮、亡者は地獄では最下層の弱者なのだと思い知らされた。
 ならば。
 ゾロが慟哭すれば骨は笑うのだから、ゾロが笑えばこの骨は不快に違いない。足りない頭でようやくそのあたりの考えにたどり着いたゾロだったが、地獄で笑うというのは本当に難しいことだった。ゾロの親しい者が手の皮をりんごのようにくるくる剥かれている最中に笑う? 形だけ笑みを作ることができても、それは本当の笑いではない。その証拠に、頭蓋骨はゾロの足掻きを見て微笑する。
 憎くて憎くて、ゾロは頭蓋骨の丸みを帯びた部分に恋しているかのように執拗に擦りつぶし続ける白昼夢を見た。そうできたら、どんなにか幸福だろうか。そのときゾロは一番いい顔で笑えるだろうに。

 どうすれば。どうすれば。ゾロが酸の海に飛び込めば骨も一緒についてきたが、肉がすべて溶け切ってもゾロは消えなかったし、骨も相変わらずそこにいた。
 何が起こっても動くまいと数年も蹲ってみたが、飲まず食わずのゾロの背中と腹が本当にくっついても、骨も飽きずにそこにいた。
 ニタニタ、ニタニタ、笑っていた。
 もうゾロは、親しい人の名前も顔も忘れていた。己の名すら忘れていた。修羅道の修羅、餓鬼道の餓鬼、つまりは地獄の一部になって、ただただ、それを苦しめたい、俺が笑いたい、とそれだけを。

「めぇ、あァ。……ゆ、さ、ねぇ……」

 ゾロの舌はどこにあるのか。ゾロの喉はどこにあるのか。答は決まっている、すべて地獄だ。ゾロの目玉も髪も手も、今はもう大蜘蛛の姿に成り果てていても。
 ふと気づけば、目の前にゾロと同じくらい大きな異形の獣がいた。
 そいつはやけに手ごわく、ゾロをめちゃくちゃにした。
 めちゃくちゃにされたところでゾロは消えられないので、煩わしいだけのゾロは怒った。骨にぶつけられない憤りをその獣にぶつけるように、憎しみを込めて戦った。血が沸騰する戦闘衝動をまとめてその獣に叩きつける。
 ゾロは体当たりをし、食いちぎり、食いちぎられ、それでも押しまくって踏み潰し、どうにかこうにかそいつをただの障害物にしてしまってから、いつものように血と反吐の混じった何かをぼとぼとと吐いた。
 汚い。臭い。不味い。そんな概念はもう、遠い。

   ゾロに倒されたその化け物は、腐臭とともにみるみる腐り落ちていき、後には骨だけが残った。人間の形をした、骨。

「……、……」

 ゾロは何の感動もなくそれを見ていた。
 体液がすべて蒸発するか地に染み込み、からからに乾燥した骨が、どうつながっているのかわからないが起き上がっても、何の驚きもなかった。他の者がどうなろうが、ゾロの苦しみに何の影響もない。
 ひゅっ、ひゅっ、と隙間を風が通り抜けるような音がして、いつの間にかゾロは咳き込むような呼吸をしていた。そして、腕──腕だ──には、剣を握っていた。
 自分の拳を痛めることなく、相手を傷つけることができる武器。

「あ……?」

 ゾロはまた前を見た。起き上がった骨には、なぜか頭蓋骨だけが欠けていた。
 その首の骨の上に、まるできっちりとあの「骨」が収まったとき、ゾロは背筋はぞくぞくとして、思わず腹をこすった。ちくちくとした感触がして、毛羽立った汚い毛糸の塊が腹に巻きついていることに気づく。これはなんだろう。ゾロを守るものだろうか。

 混乱するゾロをよそに、「骨」は初めて、喋った。

「なあ、ゾロ」

 ゾロは聞き終わる前に、斬り付けた。
 骨の言葉を聞いてやる義理など、ゾロの体をどんなに引っ掻き回しても出てこなかったし、この機を逃せば悔いるという言葉では足りない。ゾロはずっと、この骨を苦しめることだけを焦がれるほどに望んで、もうそれしかないのだ。

 迫りくる剣を、骨は避けた。
 ゾロにはそれすら喜びだった。剣があたれば、きっと骨を砕くことができるという証だからだ。肋骨の辺りを蹴り飛ばすと、ぽきぽきと軽い音がして折れた。ゾロ、という音は無視した。それを聞くたびに、ゾロの骨も変な音を立ててしまうから。

「ゾロ……」

 なんだって骨がしゃべれるのかと思えば、骨にはいつの間にか肉がついていた。その骨、今は男になった骨は、やはりニヤニヤ笑っていた。
 ──ビショビショと、目から大量の液体を垂れ流しながら。

「ゾロ。お前、お前が地獄に落ちたと思ってたろ。違ェ。違ェんだよ」






「ここは俺の地獄なんだよ」







  「地獄行きは俺だ」

 ゾロが、苦しんだように?
 ゾロが、親しい人たちの苦悶のさまを見て、苦しんだように?
 ──それがこの男への罰か。

「俺のせいなんだ」

 お前のせいか。
 だから、ゾロはこの剣を振り下ろして、男の首を跳ね飛ばしていいのだろう。
 いや、それでは生ぬるい、足の先から寸刻みにしていいのだろう。
 せっかく肉のついた顔を不細工に歪めて慟哭している男をもっともっと苦しめて苦しめて、己の所業を後悔させてやると誓った。

「ゾロ、」

 しかし、すでに、そうなっていた。
 目の前の元骨は、笑いながら、手の皮をりんごのようにくるくる剥かれているゾロを見て、きっと笑いながら、どんなときも傍を離れることを許されず、酸の海も、飢えも、すべて見て笑いながら、
 ──笑いながら、どんなに。

「俺が道連れにした……」

 高く翳された剣の切っ先を見ながら、男は頭を垂れ、ゾロが万回は白昼夢を見た言葉を口にしようとした。

「…………ごめ、」

 が、と片手でそいつの顔面をつかんで締め上げてやると、言葉もついでにどこかに霧散した。
 ふわり、と煙のにおいがした。

「泣くんじゃァねぇ、みっともねェ」

 ゾロは笑っていた。たぶん、一番いい笑顔で笑っていて、幸福かどうかは知らないが、なぜかすべてのことがわかっている気がした。ああ畜生、消し去ってやると誓ったのに、この気持ちは何だろう。
 ゾロはいつ振りかわからないが、ガラガラした声を出して、喋っているのだった。ゾロの舌も、喉も、地獄にあるが──喋ることができた。ゾロは顔を締め上げていた手を頭の上へとずらし、乱暴にぐいぐいと撫でた。

「──てめぇがいるんだ。ここは俺の地獄だろう」
 
 お前が罰を受けているなら、俺の地獄だ。
 そうはしたくないというのなら、お前も笑っていりゃあいい。






 

Fallen Angel フォーリン・エンジェル
ジンとレモンジュースを3:1、クレーム・ド・ミントリキュールとアンゴスチュラ・ビターズラムを少量加えてシェイクする。
ほとんどジンでできているといってもいいカクテルで、アルコール度数は高い。ミントの香りと少しビターなラムの味がアクセントとなる。
カクテル言葉は「叶わぬ願い」。