今朝、ゾロのもとに一通の手紙が届いた。
ゴーイングメリー号を降りて、もう五年になる。
ひとところにとどまらず転々としていたので、その手紙がゾロのところにつくのに、長く時間がかかったようだった。
潮の香りのする街だった。
あのころは、潮の香りなど、改めて気付くような物ではなかったと、ふと思った。
市場へと続く長い道をぶらぶらと歩く。
人通りはそれなりに多く、しかし肩をぶつけるほど込み合っているわけではない。
ズボンのポケットに両手を無造作に突っ込み、腰の刀の重みを感じながら、ゾロは一歩一歩、ゆっくりと踏み出す。
夏。
街の何処にいても、潮騒が聞こえる。
照りつける太陽が、まぶしくて、ゾロは目を細めた。
何故だか、懐かしく感じるものがそこにはある。
降る日差し。
何処かで聞こえる、スロウバラード。
思い出すのは、いつも夏だ。
涼しい風が、ゾロの頬をかすめた。
すりぬけ、少しだけゾロの体温を奪う。
辺りの蒸し暑い気温のわりに、冷たいそれは、誰かの手の感触を思い出させる。
細く長い、繊細な冷たい指先の感触を。
それを間近で見る機会があったのは、数えるほどしかない。
―――それはいつだったか。
ああ、やけにはっきりと覚えている。
思いがけず敵に手こずって、要らない怪我をしたときだ。
背を向けずに、ちょっとした深手を負った。
誇りと引き替えならば、別段、高い支払いではない。
そいつを切り伏せた後、胸から溢れ出る血の始末に少し困った、それだけ。
その時の、仲間である筈のコックの第一声は何だったか。
「バーカ」
嘲るように(いや、本気で軽蔑していたのだろう)ゾロの頭を足で小突いた。
それに文句を言う前に、また思い切りゾロの怪我の上を踏み、
「ナミさんに頼まれたからだぞ」
とぶつくさ文句を言って、怪我の手当をし始めた。その間も、始終こちらをののしっていた。
よくあれほど口が回るものだと、妙なところに少しだけ感心しながら、くるくると動く華奢な指先を見つめていた。
コックは、ゾロの怪我を一通り検分した後、急に冷めた声になった。
「テメェ、ホントに背中には怪我一つねぇんだな」
「当たり前だ」
剣士の恥、と答えたゾロに、コックは一言で返した。
「つまんねー奴」
思わず言い返そうとしたのだが、その時の奴の瞳が思いがけず真摯だったから。
その続きを聞く気になったのだと思う。
―――――やけにはっきりと、覚えている。
+++ +++ +++
「テメェをボコボコに蹴り飛ばして、背中に傷を付けてやりてェよ」
「―――――なんだと?」
冷たい声に、ゾロは厳しい視線を向けた。
「馬鹿は死んでも直んねェみたいだから、どうせ無駄だろうけどな」
「テメ、ケンカ売ってんのかよ」
「―――あァ、売ってるぜ。カビ頭は最悪に頭が悪ィみたいなんでな」
すう、とその場の気温が下がる。
いつものふざけたじゃれあいではない、サンジの瞳は本気だったし、ゾロもそんな発言を許すつもりはなかった。
刀の鍔をならす。
「長生きしてぇならその口さっさと閉じろ」
「誰もテメェなんざのためにボキャブラリーを浪費したくはねぇんだけどなぁ?
何遍でも言ってやるよ、お前は馬鹿だ。しかも極めつけのな」
しゅ、ときつく包帯を巻き終わった後、サンジはゾロの目を強く見返した。
冴え冴えと光るその蒼を、ゾロも強く睨んだ。
譲れないものが、二人にはあった。
それは、どうしても重ならないものだった。
許せないのか、それとも。
「…………傷を、付けてやりてェんだよ。その、クソくだらねェプライドに」
+++ +++ +++
ゾロの目が、ふと前を見据えた。
若い男が二人、連れだって歩いている。
一人は金髪、もう一人は茶髪だった。
青年。少年ではなく、かといって充分大人かと言えばそうでもない。
市場から帰ってきたのであろうその二人は、沢山の紙袋を抱えていた。
どちらが沢山持っているかを議論し、紙袋を押しつけあっているようだ。
ゾロが見た様子では、双方同じくらいの重量を抱えている。
要するに、口実が欲しいのだろう。
風になびくその金色に、一瞬目が止まったことに、別段深い意味はない。
笑いあって、怒鳴りあって、呆れて、ののしりあって、背を叩き、くだらないジョークを飛ばしてまた笑う。そして喧嘩。
明日が明日としてそこにあることを、欠片も疑わず、また、それが許される存在。
別に特別でもない、どこにでもいるような、そんな青年達。
通り過ぎる。
立ち止まって、振り返った。
小さくなる背中と笑い声。
しばらくそれを見送った後、ゾロはまたゆったりと歩き出した。
刀の鞘がぶつかって、重たげな音を響かせる。
暑い、日。
ゾロの先の道は、ゆらゆらと陽炎で霞み、揺れている。
熱くなった砂が、足下で軽い音を立てる。
笑い声は、もう聞こえない。
コックが死んだ、とその手紙には書いてあった。
ちっぽけな物を守って死んだのだと。
生温い空気の中、肌を焼く日差し。
市場はもうすぐだ。
+++ +++ +++
「背中に傷を負わないのは、剣士としての俺の誇りだ」
「………………」
「背は、向けねぇ。絶対に」
ぎらり、とサンジの目が光る。
煙草のフィルタをぎり、と噛みしめ、突然足を振り上げる。
振り下ろす。
どごんっ
「っ何すんだ、テメェは」
ゾロが避けていなかったら、昏倒くらいではすまなかったのではないか。
サンジのかかとは、床に埋まっていた。
「………背中以外のトコなら傷付いてもいいんだろ?なら、いいじゃねェか」
酷薄な笑みを唇に浮かべ、サンジは毒づいた。吐き捨てるような口調で。
「一生涯、背中に傷なんぞつける気はないだ?ああ、うざってェなァ。目障りなんだ、俺の前でんなくだらねェことされるとな」
ひゅんっ
白銀が、サンジの目の前で制止した。
ゾロが、鬼徹を抜いていた。
「………無意味で半端な騎士道精神は高尚だってのか?くだらねェのは、どっちだ」
静かな怒りを瞳に宿して、ゾロが問う。
サンジの口調も変わらない。
「勿論テメェだ、クソ野郎が。なんか勘違いしてんじゃねェのか?」
―――――――色々な、事を。
+++ +++ +++
「海賊だァ!!!」
ゾロの足が止まった。
騒ぎは、港の方だ。ゾロが、今来た道。
ゆっくりと振り向く。
…………ああ、この不安をアイツも抱えていたのか。
港では、海賊が暴れ回っていた。
円月刀を振りかざし、逃げまどう人々を笑いながら傷つける。
「金目の物は全ていただくぅっ!!」
「ぎゃーーーーはっはっはぁ!!」
泣き喚く女の声。
倒れる荷車。
火の手が上がる船もあった。
「はっはぁ!!」
一人の青年が、海賊に襲われていた。
転んで、しりもちをついたところに、上から刃が降ってくる。
その一瞬を覚悟し、目をつぶる青年。
金髪が、太陽を照り返す。
それが血に染まるさまは、さぞ美しいコントラストを産むのだろう。
嗜虐の喜びに浸る海賊の歪んだ笑みは、振り下ろされる刃の奇跡に反して醜い。
上がる悲鳴。
無意識に、身体が動いていた。
乾いた地面を箒で鋭く撫でるような、石と石を擦りあわせるような、鈍い音。
沸き上がる赤。
ゾロの背中が熱くなり、一瞬後、激しく何かが脈打った。
痛みはない。
ただ、酷く疼いた。
目を可能な限りまん丸く見開いて、青年がゾロを見つめていた。
彼の顔は間近にあった。
――――その目は、茶色だった。
冷たい指先。
『テメェを見てるとイライラすんだよ』
『…………そりゃ全くもって同感だ』
遠い炎。帰らない、海。
ゾロはゆっくりと立ち上がった。
そしてくるりと振り返ると、薄く笑った。
獣の笑み。
手負いの獣などではない。
…………もっとずっと前から、そうだったのだから。
その傷がいつ出来たのか、お前は知らなかっただろう。
なぁ、そんなん、どうでもいいとか思わねぇ?何の為に強くなるんだよ。
いつか終わりの時に、考えることが何もなかったら虚しくねぇの?
自分の人生、コレで悔いなし、って、俺は絶対ェ信じねぇ。そんなつまんねぇ人生、一体どうやって生きてったらいいんだ?
海賊達がその眼光に、揃って一歩後ずさる。
ゾロは刀を抜いた。
その照り返しが、全ての人の目を焼いた。
ただの鉄とは思えない、純粋な輝き。
その白銀の煌めきと、広い背中に浮かぶ、真っ赤な痕。
常人では、立ってもいられないだろう、傷。
しかしそんな怪我は感じていない、まるでないのと同じなように、ゾロは一歩、足を踏み出した。
死ぬのって、簡単か?
そんなん、カッコ悪ィよ。
ぎらつく瞳と、飢えた眼差し。
砂漠にいる旅人のように、たった一杯の水を欲しがる旅人のように。
誰もが手に入れている物を、狂おしいほど欲する。
何処にでもある、のに。
自分のもとにはない。
軽く、右手を振り降ろす。
一番近くにいた海賊の首が飛んだ。
その血が空中に吹き上がり、きらきらと飛び散った。
赤い赤い、雫。
その、赤。
ああ、お前はスゲェよ。鉄は斬れるはバカ力はあるは、オマケに野望はでっかいしな?だけど、そんなんちっとも意味ねぇよ。
それじゃ、刀が折れたらお前も折れちまうんだから。
全然幸せじゃねぇじゃん、お前。
「三刀……………!?」
「まさか、ロロノア・ゾロ!?」
「う、わあああああああ」
「逃げろ!」
「ぎゃああ!!」
驚くほど綺麗な動作で、ゾロは命を奪う。
舞っているような華麗な技。
一振りで、一突きで。
必ず命が刈り取られる。
毛ほどの動揺もなく、黙々と刀を振るう。
命の雫をまき散らしながら。
その背は、已然として真っ赤なまま。
地に、命の抜け殻が横たわる。
波が、紅く。
風が、苦く。
俺ァ、無意味な人生を生きてるかもしれねぇ。でも、テメェは無駄な人生生きてるよ。
ゾロは、何かを探していた。
逃げまどう海賊ではなく。
呆然と見守る町人たちでなく。
背中の疼きでなく。
喪失感でもなく。
だんだんとぬめって切れ味がなくなっていく刀でなく。
欲しかったのは、たった一杯の水。その蒼。
…………なあ、何の為に強くなるんだ?
その、声が。
聞こえたなら。
ゾロは、刀を振り続けた。
背中の感覚は、麻痺していた。
例えば俺が今お前の刀蹴っ飛ばして折ったとしたら。お前はどうするんだ?俺を殺すか。殴るか。軽蔑するか。船を降りるか?
そんで、その後どうするんだよ。
お前に何が出来るんだよ?
わかるかよ?お前、野望叶えたらその後は死んでもいいって言ってるんだぜ?
何の為に。
お前はバカだ。大馬鹿だ。先だけ見たってしょうがねぇだろ。
今、お前の周りに何があると思ってる?
テメェはもう、勝手に死ねねぇんだよ。
―――――勝手に死ねねぇんだ。
その蒼い瞳が。
柔らかく自分を見つめた時を知っている。
――――心配だったら素直に心配だと、言えばいい、のに。
馬鹿は、どっちだ。
ゾロは、唇を歪めた。
何の為に強くなった?
そんなこと、もうわかっている。
それがわからなかったのは、わかってなかったのはテメェだけだよ。
「ふざけんな馬鹿野郎が」
ゾロの唇が、勝手に開いて感情のない言葉が滑り出た。
本人も知らないうちに、漏れ出す、言葉。
「勝手に、ぺらぺらぺらぺら説教たれやがって」
「俺が、何の為に強くなったと思ってる」
「そんなこと全然解ってなかったくせによ」
「好き放題言いやがって」
「お前ほど自分勝手な野郎は見たことねぇよ」
「俺が、何の為に強くなったと思ってる…………!」
俺が、折れたのは。刀が折れた時じゃねぇんだよ。
わかれよ。
――――わかれ、よ。
何でもないような、くだらないことで。
何でもないような、くだらない物をかばって。
ああ、声が。
何処にいるんだ……?
ふと、視界が暗くなっているのにゾロは気付いた。
太陽は出ている。
肌は容赦なく、未だ衰えない光で焼かれている。
―――――何故か酷く、寒い。
ゆっくりと、背中に手をやった。
紅い、紅い。
傷。
倒れる瞬間に見えたのは、ただ蒼い、それだけの空。
ただ、それだけの空で。
ゾロの心臓が、最後の鼓動を刻んだ。
頬を辿る冷たい感触に。
何だ、泣いていたのか、と。
それだけが唯一の救いだった。